続・埋み火(中)
孫策に関することで、 にとって意外だった点はよいことと悪いことがひとつずつあった。 まず悪いことは孫策が呼びにきたこと。一夜限りの気まぐれかで済むかと思っていたのに続きがあった。 それからよいこと…正しく言えば、「よい」というより「マシである」というくらいだが、乱暴なのは一番初めだけだったということだろう。 抱かれた後のまどろみから抜け出せないままの の耳に、廊下のほうから声が流れてくる。 戦の話らしかった。 「伯符。やりすぎるな。禍根を残しては火種にしかならない」 「分かってるよ。でもあいつらも見てるだろうからな。ちょっと思い知らせてやる」 「伯符!」 それ以上は聞き取れなかった。 孫策が出陣した後、 は意識していつも通りの生活に戻る。 あるとき、 は孫尚香に宮廷での探し物の手伝いを頼まれた。案内された広間は何人もが合同で執務に使用していたらしく、机上にも床の上にも様々なものが乱雑に積み重ねられている。ただし使われていたのは先日までで、今、広間にいるのは孫尚香と の二人だけだ。 聞けば孫尚香の私的な書簡が宮廷用の文書にまぎれてしまったらしい。 「誰かに見られたら恥ずかしいから、その前に回収したいのよ」 孫尚香が広間の開け放たれた扉をくぐる。 「書類の流れからいって、ここにあるのは間違いないんだけど」 はあちこちで山崩れを起こしている書簡の束を目で追った。 「問題はどこにあるかですよね。手分けしましょうか」 孫尚香と はそれぞれ窓側と廊下側から順に見ていった。ほどなくして孫尚香が「あった!」と声をあげた。 がそちらへ首を向けると、奥のほうの大き目の机の上に座った孫尚香が書簡を広げて安堵した様子を見せていた。 が孫尚香の近くに歩み寄る。 「見付かりましたか。よかったですね」 「うん、ありがとう。…あら、ここ、お兄様の使ってた机じゃないの。どう見ても分けて置いてあったわ。気付いてたんならすぐに教えてくれればいいのに、きっと忘れてたんだわ」 は孫尚香の腰掛けと化している広い机を見やった。散らかったままの書簡から時折のぞく「伯」の字はこの机の主が長男であることを示している。明らかに間違えて届いた妹の書簡を見て「しょうがねぇヤツだな」とぼやきつつ横に分けて置いておく姿がなぜか目に浮かんできた。 やだな。私、何考えてんだろ。 自分の想像したものを心の中から押しやるように、 は机上から目をそらす。そのとき机の横のほうに散らばっている紙片に は気付いた。紙片といってもかなり大きなもので、もともと大きな紙を荒く破ったもののようだった。 が注意を引かれたのは、その紙に書かれていたのがいくつもの人名だったからだ。 「何ですか、これ」 は紙片を手に取った。人名はいくつかは横に、いくつかは縦に並び、線で結ばれている。 「系図…?写しですかね…?」 孫尚香がはっとしたように身を乗り出した。 は紙片を孫尚香に手渡す。 「ああ、これね…。お兄様がやったんだわ」 「伯符さまですか?不要になったからお捨てになったということですか」 「…うん…系図が不要ってのは…そういうこと」 は気付くものがあって再び系図を見た。系図の姓は聞き覚えがある。いつだったかは定かでないが、孫策が手を合わせた相手ではなかったか。 はさらに目を走らせる。そういった系図は一枚ではない。 その一方で、破りかけのものもあった。 「それは…この人が残ってるから」 孫尚香が一人の名前を指差した。系図の位置的には上のほうになることから年配であることが想像できる。 「情けをかけられたのですか」 「…というより…お母様がたしなめたから」 は孫策が出陣前に釘を刺されていたことを思い出した。それはこういう意味だったのだ。 誰もいない一族にも、一人だけ残された老人にも寒いものを感じながらも、それとは別に の中に疑問が浮かんできた。孫策はそれに対して「あいつら」に「思い知らせる」と言っていた。ではそのあいつらとは誰のことだ?それに、何のために? 「 、もう行こうよ」 孫尚香は腰掛けている姿勢から両足を振ってぽんと床に飛び降りた。 「あ、はい」 孫尚香にも訊けぬまま、 はその広間を後にした。
疑問を残したまま、それから数日が過ぎた。 夕方、外出していた が宮廷に戻ろうと道を歩いていると、一人の少年から声をかけられた。身なりはちゃんとしているし、また物腰も柔らかく礼儀正しかった。どこかの良家のお坊ちゃんだろうかと は思った。 「すいません。宿場はこちらの方向でよろしいでしょうか」 「ええ、あってますよ。でも距離はありますから少し歩かないといけませんが」 「そうですか。助かりました、ありがとうございます」 少年は頭を下げた。宿場を確認するということは外部の人間だろうか。主である孫策が不在のため、念のため人の出入りには注意するよう指導されている。 は思いついたことを口にしてみた。 「旅の方ですか?」 「ええ。一度呉都を見ておこうと思いまして」 少年はにこりと笑う。 「そうですか。ここは住むにはいいところですよ」 「そのようですね。まず活気がありますし…」 独り言のように少年は言った。 「ちょっと耳にした感じだけでも、主である方の人望も厚いようですね。今はいらっしゃらないようですが」 は何とも言及のしようもなく、あいまいに相槌を打つ。 「伯符さまは…戦に出ておられます」 これは隠すことではない。少年は「聞きました」と頷いて続ける。 「負けるような相手でもありませんから、じきに掃討して戻ってこられるでしょう」 少年は孫策を知っているのだろうか。少年の使った「掃討」という言葉は正しいと は思った。 「そうですね…容赦はしない方のようですから。そこまでなさる理由は分かりませんが…」 が返すと、少年は少し考えるような素振りを見せ、やがて口を開いた。 「あなたは、月はお好きですか?」 唐突な質問だった。 「…いいえ」 戸惑いながらも、 は正直に答える。 「何となく…忌まわしい感じのするときがあって…」 はこんな答えでいいのだろうかと少年を見たが、少年にとってはその質問は単に話のきっかけであって答えはどちらでもよかったらしい。気にした風でもなく少年は言葉をつなぐ。 「ここの主でいらっしゃる方は月に縁があるそうですね」 孫策のことのようだ。 「母たる方が身ごもられたとき、その懐に月の入る夢を見られたとか」 初耳だった。だったらなおさら好きではないと言いかけて は咳払いでごまかした。さすがに不敬な気がしたからだ。 は慌てて取り繕う。 「…あ、いえ。ほら、たまに赤い月があるじゃないですか。あれがやっぱり…血みたいな色で…気味悪くって…」 「月の蝕のときですね」 少年は天を振り仰いだ。 「普段の満ち欠けとは違うものが月を欠けさせるんですよ」 はそこで少年と別れた。少年はもう一度礼を言って歩き出した。 の頭の中には少年の言葉が残った。 少年は言った。
そうして欠けた月は。 赤く染まります。
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