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続・埋み火(後)

 

 

 びりっ、と紙の裂ける音がした。

  ははっと目を開けて、そのまま頭を動かさずにまぶたを伏せる。見なくても分かった。孫策が私室に持ち込んでいた系図を破ったのだ。

 凱旋の後すぐに は孫策に呼ばれた。

 いつものように体を重ね、文字通り、愛される。

 渇いた喉が水を欲するように孫策は を求め続けた。

 孫策が抱いているのは自分であって自分ではないのは分かっている。

 なのにどうかすると勘違いしそうになる。

 自分に言い聞かせるのに努力が必要になってきたことに、 は危機感を覚え始めていた。

 その孫策は今、別室にいる。孫策に何やら伝えたいことがあるとかで、周瑜ともう一人報告の担当者が来ている。すぐ隣の部屋なので声は聞こえる。

 話の内容は にはよく分からなかったが「連名」や「対抗」といった言葉は聞き取れた。

 孫策がふんと鼻を鳴らす。

「顧…朱…張…。本気で組みやがるか。もっと早くに予想すべきだったな」

 孫策が言ったのは家の名前である。 でも知っているいわゆる名家だ。呉郡の名家は四つあったはずだ。確かもうひとつは…。

「呉都をちょろちょろしてるって話はあったけどな。こっちの様子をうかがってたのはそういうわけか…」

 孫策の声は続く。

「こう四つもまとめて来られると厄介だな。まったくどこまでも生意気なヤツらだ。ま、このくらいじゃ脅しにならねぇか…」

 もう一度紙を裂く音がした。

 孫策の口ぶりからして先の三つの家が手を組んだというよりも、もうひとつの家が残りの三つの家と手を組んだということのようだ。脅し、ということは孫策が意識している対象はその家なのだろうか。

「分かった。ご苦労だったな」

 話の終わる気配がした。二人分の足音が扉に向かう。二人が退出しようとしたとき、孫策が「待て」と声をかけた。

「お前…陸家のことが分かるか」

 そう、そのもうひとつの家は陸家だ。 は合点がいったのと同時に孫策のためらいがちな声音に違和感を持った。話が終わってから孫策は声をかけている。訊こうと思っていたことを思い出したというより、訊こうかどうしようか迷った挙句結局訊いてしまった、という感じだった。しかも緊張しているように聞こえるのは気のせいだろうか。

「大分前に死んだヤツで…てのがいただろ」

 孫策が発したのは には知らない名前だった。話の流れから陸家の者であることは推測できるが。

「その娘が今、どうしているか知らないか」

 娘という言葉に は自分の鼓動が早くなるのを感じた。

 もしかして。

「そこまでは…分かりかねますが…」

 報告の担当者は困ったように口ごもる。孫策は食い下がる。

「どんなことでもいいから教えてくれ。元気かどうかだけでも」

「そうおっしゃいましても…。病を得たというような話は聞いてはいませんが…」

「そうか…」

 力のない声だった。

 孫策の発したそれには相反するものが含まれていた。何も分からないことに対する失望と、それでも悪いことを聞かずには済んだという安堵。

 間違いない、と は思った。

 やはりちゃんといるのだ、その人が。

 孫策ですら意のままにならないところにいるのだ。

 勘違いしなくてよかった。変な期待を持たなくてよかった。

  は片腕で自分の目の辺りをおおいながら思った。

 

  が身支度をして孫策の前に現れたのはそれより少し経ってからだった。

 「二度とここへは来ません」と告げる に、孫策は眉を寄せた。

「…お前は俺のものだって言っただろ」

「私にそのつもりはありません」

 答えながら、 は思う。

 孫策はそういう言い方をする。

 その理由は今なら分かる。手の届かないものへの苛立ちをそう言うことでまぎらわせているのだ。

 そう、自分の存在はそれをまぎらわすだけであって、根本的に何かを変えるわけではない。

 私がいても、いなくても。

 月は赤い。

 求めるものが欠けているから!

「お前がどう言おうとそいつは残るぜ」

 孫策は の胸元を指差した。

「消える前に俺が必ずつけ直すからな」

  は鼻で笑いたい気持ちをかろうじてこらえた。こんなものが何だというのだ。

「ならば、私はその都度、消しましょう!」

  は叫んで隠し持っていた短刀を引き抜いた。孫策の私物を無断で拝借したものだ。片手で自分の襟元を引っ張り、その痕に向かって短刀を振る。

っ!?」

 鮮血が飛んだ。

!!」

  の手から短刀が抜け落ち、両膝が崩れ落ちる。異変を聞きつけた周瑜が駆け込んできた。事態を見て取った上で先に動いたのはやはり周瑜だった。

「早く止血を!」

 倒れた を抱きかかえるようにして、周瑜は自分の上掛けの帯を解いて の傷口にあてがった。薄い布の帯はみるみる赤く染まる。孫策は立ち尽くしたままだ。顔色が真っ青になっているのを、 はちらりと視界の端にとめたような気がした。

「伯符!何をしてる!医者を呼んでこい!」

 周瑜が怒鳴った。

「伯符!」

 もう一度周瑜の声を聞いたのを最後に、 の意識は遠くなった。

 

  が目を覚ましたのは、喉もとの不愉快な熱さと痛みのせいだった。体を動かすのはひどく億劫だったので、 は目線だけで辺りをうかがった。

 病室である。訓練中にもときどきお世話になる場所だ。

  は片手だけをそろそろと動かして手当てのされている傷口に触れる。

 話を聞いて真っ先に飛んできたのは孫尚香だった。目を真っ赤にして病室に駆け込んできた孫尚香は の姿を見るなり、わあわあと泣き出した。ちょうど起きていた は孫尚香が勘違いをしているらしいことに気付いて慰めながら事態を説明することになった。仮にも剣を扱う身だが、予想よりも血が出て気を失ったのは にとって誤算だった。加減の仕方を間違えては洒落にならない。

 だが、やっただけの効果があったと が思ったのは孫策がお見舞いと称して来たときだった。

  の目から見ても明らかに憔悴していた。

 その落ち込みぶりは思わず「何かあったんですか」と訊きたくなるほどだった。が、そんな自分に気付いて は苦笑したい気分になる。この自分のせいだと言ってもらえれば、自分は満足するだろうかと思い。

 さすがに横になったままで応対するわけにもいかず体を起こした に孫策は立ったまま声をかける。

「まだ痛むか」

「少し」

「馬鹿が。そんなに気に入らねぇなら俺の口をそぎ落とせっつーんだ」

「伯符さまに本気で切りつけるわけにはいきませんよ」

 本来なら私物を無断で使用した上に主の前で許しなく抜刀したことは処罰の対象になってもおかしくないところだ。が、この点についてはおとがめなしであった。

「かと言って…自分を傷付けることはねぇだろ…」

 孫策は のいる寝台に腰掛けて首だけを に向けた。距離が一気に近付く。

  は孫策のほうにすっと手を伸ばした。孫策はすねたような表情を変えずに黙ってそれを待つ。こういうことのできる間柄にはなっていることを は実感する。

  の手のひらが孫策の頬に触れた。孫策はそのままで首を横に振るような仕草をした。それは否定の意ではない。もっとなでてほしいときに孫策がそうすることを は知っている。今ではこの手に誰を重ねているのかも。

 今はまだいい。割り切れる。

 でも今後。

  はその可能性を否定できない。自分は身代わりであることに耐えられなくなるかもしれないという可能性を。

 だから気持ちに整理をつけようと思ったのだ。

「ずっと…悪かったな」

「そうですね」

「俺は…どうしたらいい?」

「何もしないでくださいますか」

「…分かった」

 目の前の男ががっくりとうなだれるのを見ると、 ははっきり言いすぎたかなという気になる。だが訂正する気はさらさらない。孫策もそのあたりはかまわないようだった。このくらいの物言いが許されるのならそれも悪くない。

 孫策は頬の の手を取ると、 の膝の上に戻した。そうしてから立ち上がる。

「じゃあな。早く治せよ」

「はい」

 孫策はそれで去った。 も引き止めなかった。

 

 数日後。

 復帰した は訓練の途中で孫策と偶然顔を会わせた。 が屋内に入ろうとしたとき、ちょうど連結のあたりを孫策が通りかかるところだった。

「おはようございます」

「よぉ」

 孫策は相手が だと分かると少し驚いた様子を見せ、また の手の長剣から訓練の途中であることを察したようだ。孫策が挑むような、それでいておもしろがるような表情になる。それは多分自分がそんな顔をしているからだろうと は思った。心のしこりは残ってないようだ。自分にも、相手にも。

 孫策が歩きながらわずかに腕を上げるような仕草をした。それに気付いた が同じように片腕を上げ、手のひらを握り締める。

 すれ違いざまに二つの拳が一瞬だけ打ち合わされる。

 そのまま立ち止まることなく二人は通り過ぎた。

 

  


 

孫策と月のエピソードを一回書いてみたかったのですが、何だか煮え切らないだけの話に…。ヒロイン、テンション変だし(シリアスなのにノリ軽いっていうか…・汗)。お許しを。

 

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