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続・埋み火(前)

 

 

「やっぱり…残ってる…」

  は鏡を見ながらつぶやいた。

 相部屋であるため同室の娘が外出するのを待ってから は着物を脱いで改めて自分の体を見た。

 胸、腹、腕、もも…昨夜の痕跡が残っている。

  は数えようとしてすぐにそれを止めた。数を知ればなおさら気が滅入るであろうことが予想できたからだ。

 中でも、と思いつつ は鏡をのぞく。喉のすぐ下のあたり、鏡でしか見えない位置にひときわくっきりとしたそれがある。

「痕つけといてやる」

 その部分に執拗に口付けながら孫策は言った。

「お前は俺のものだって痕を」

 …冗談じゃない。何が俺のものだ。

 しかも自分が誰かの身代わりであることは、今思えば孫策が最初に自分にかけた言葉から明らかだ。

 湧き上がってきた二重に不愉快な感情に は思わず自分の喉もとに爪を立てる。が、すぐに思い直して力を抜いた。止めよう…自分が痛いだけだ。

 嫌な気分を追い払うように は首を振ると、着物を着るために腕を伸ばした。いつも通りに袖は通したが、前の合わせ目の部分は鏡を見ながら慎重に行う。

 ぎりぎりで隠れたようで は安堵した。が、動きによっては見えるかもしれない。あまり首を伸ばさないよう当分は気を付けないといけないだろう。

 何か不自然でなく首を隠すものがあればいいのに、と は思った。そういえば孫策の妻と呼ばれている人はいつも扇を持っているという話を聞いたことがあるが…。 は軽く肩をすくめた。そこまではしたくない。

 どうせしばらくしたら消えるのだ。

  はもう一度身なりを確認すると、立てかけてある長剣を手に取ろうと身を屈めた。そろそろ午後の訓練が始まる。

 孫策から解放されたのは明け方に近かったた、なので昨日の今日で朝から訓練に参加する気には到底なれず、 は体調不良を理由に午前中は休ませてもらうことにしたのだ。

 そろそろ行かなきゃ。

 そう思って踏み出そうとしたとき、廊下のほうから軽やかな足取りが聞こえた。

ー!いるのー?大丈夫ー?」

 続く声は孫尚香のものだ。様子を見にきてくれたらしい。何となくほっとするものを感じながら、 が答えようと、そして扉を開けようとしたそのとき。

「…お兄様?」

  は動きを止めた。まさか。

「尚香じゃねぇか。何してんだよ」

 この声。間違いない。

「それはこっちの台詞よ。ここは女の子の専用宿舎じゃないの。お兄様が何の用なの」

「男が女の部屋を訪れる理由なんか普通ひとつしかねぇだろ」

「あらあら、それはご苦労なことね。…どうしたの、お兄様。早く行ったらいいじゃない」

「そこに用があんだよ」

  はどきりとした。「ここに?」と孫尚香の聞き返す声がする。

「一人は訓練に出てるわ。もう一人の子は休んでるんだけど」

「ああ、さっきお前の部隊のヤツに聞いたよ。だから来た」

 間があった。

「お兄様…?」

 孫尚香の探るような声が続く。

「それって…もしかして…この子が休んでるのと関係あるの…?」

「多分俺のせいだろうな」

「…信じられんないっ!!」

 ぱぁんと高い音が廊下に響き渡った。やった、と は思った。

「…痛ぇな」

「最低っ!!」

「最低でかまわねぇよ。…それでも必要なんだからしょうがねぇだろ」

  は黙って目を見開いた。何を言っているのだ?

  と同じ疑問を孫尚香も抱いたらしい。

「…本気とは思えないわ」

 孫策からは否定の言葉も肯定の言葉も聞こえてこない。孫尚香は「だって」と続ける。

「お兄様はもっとお嬢さんっぽい人が好きなんじゃなかったの。私の部隊の子は女のうちに入らないっていつも言ってたじゃない」

「そうだな」

「なのに には興味あるって言うの」

「そうだな」

「どうして…」

「お前には関係ねぇ」

「お兄様!」

 孫策がそれには答えずに扉に向き直るのが気配で分かった。 は知らずのうちに扉に近付けていた耳を慌てて離した。扉をはさんだ向こう側のすぐ近くから孫策の声がした。

!いるんだろ!俺と一緒に来い!」

 乱暴に扉が開けられる。 は正面に現れた孫策と向かい合うかたちになり、次の瞬間片腕を取られて廊下に引っ張り出されていた。

「尚香。こいつは借りていく」

「お兄様!ちょっと…!」

 孫尚香の抗議の声に、 は半ば申し訳ないような気持ちになる。孫策はともかく、孫尚香に身内を相手にしてケンカをさせるのは忍びなかった。

「姫様。私でしたら大丈夫です」

 そのまま歩き出した孫策に半ば引きずられるようになりながら は孫尚香を見やる。

  の発言が意外だったのか、孫策が足を止めて振り向いた。 は体勢を立て直し、真っ直ぐに立ってその視線を受け止める。

「伯符さま。腕を離していただけますか。一人で歩けます。…逃げたりはしません」

 孫策は腕の力を緩め、離した。それから廊下の先を顎でしゃくり、さっさと歩き出す。 は追いかける。

!無理しなくて…!」

 心配げに見送る孫尚香に対し、 は安心させるように笑顔を作り、手を振った。

 やがて孫尚香が見えなくなったところで は表情を戻した。この男だけが相手なら愛想をする必要はない。孫策の後に続いて廊下を歩きながら は自分達の向かう先を考えた。方向としては宮廷の奥まったところのようで、 はまだ足を踏み入れたことのない場所だ。孫策の私室があるならそこだろう。

 孫策は足を止めずに を振り返る。

「近いうちに出ることになりそうなんだ」

 孫策が言っているのは戦のことだ。

「だからその前に付き合え」

  は頷くしかない。 は孫策には聞こえないようにそっとため息をついた。

 

 


 

 

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