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埋み火(前)

 

 

「へぇ…お前も っていうのか」

 ふいに横からかけられた声に、 は顔を向けた。

 訓練の途中である。孫尚香の部隊に所属する は、その孫尚香に呼ばれて駆け出そうとしたところだった。

 日中の、まぶしいはずの太陽の光が、大きな影によってさえぎられる。逆光の中に、男の姿があった。

「は…何か?」

  はその男に気付いて、首だけでなく体全体を向き直らせる。遠くから見かけたことはあるが、直接話をするのは初めて。そして軽々しく扱っていい相手ではない。

 孫尚香の上の兄、孫策である。

「偶然ってあるもんだな」

 孫策は の先の問いかけなどお構いなしといった風情で、まじまじと の顔を見る。

  はその仕草に戸惑った。

「あの…?」

 まさか見つめ返すわけにもいかず、 は所在無げに立っているしかない。その様子に気付いた孫尚香が、遠くから腕を振り上げた。

「ちょっとお兄様!何してんの! が困ってるじゃないの!真面目でいい子なんだから手を出さないでよ!」

「たく、うるせぇな…」

 孫策はぼやくように言って、体を真っ直ぐに戻した。 は、孫策がわずかに身を屈めてまでこちらに近付いていたことを知った。

 孫策は孫尚香の方へ一度首を向け、それから を見た。

「悪かったな。行っていいぞ」

「はい…失礼します」

  は礼の仕草をとって、孫策から離れた。 は振り向かなかった。振り向けば間違いなく目が合う、そんな気がしたからだ。

 

 孫策は有名人である。

 呉と呼ばれる一帯を実質的に統括している孫策は、皆にとっても にとっても主にあたる。その割には気取らない闊達な性格で、それに惹かれてやってきた武将も多いと聞く。

 だがその一方で、突きつけられた難題をこなしてみせた仙人を恐れ多くも斬り捨てたというような、暗い噂もある。

 今まで孫策とはかかわり合いがなかったため、そういった話を軽く流していた だったが、実際に会って、その噂もあながち間違いとも言い切れないのではないかという気がしてきた。

 何だか…怖い人みたい。

 それが初めて孫策に向き合って の持った印象だった。なぜかは分からないが、皆が安心して統治を委ねているその人であるにもかかわらず、漠然とした不安を感じさせる気配があった。

 

  はその夜、なかなか寝付けなかった。

 何度目かの寝返りを打ってから、 は眠るのを完全に諦めた。

 剣でも振ってこようかな…。

 気晴らしになるかもしれない、そう思って は上半身を起こした。同室の娘を起こさないようにしながら夜着を脱いで、動きやすい袴に、上着を羽織って帯を締める。そうして愛用の長剣をつかみ、そっと部屋を出た。

「どうした?」

「すいません、ちょっとだけ…。すぐ帰りますから」

 見回りの兵に見咎められて、 は肩をすくめながら訓練場へ向かった。

 廊下の窓から月の光が入り込んでいるため、灯りを持たなくても歩くのには十分だ。次の角を曲がれば訓練場というところで、 はそこから煌々とした別の灯りがもれていることに気付いた。

 誰かいるのかな…?

  は「誰がいるのか」とは考えなかった自分を、次の瞬間に後悔することとなった。

 訓練場は、屋内での大人数での訓練が可能な、大きなつくりの建物である。出入り口から正面に見た向こう側の壁には、格子窓が横一列に並んでいる。

 その中央に、人影はあった。両腕を窓枠にかけ、外を見上げながら、片足をつま先だけ床につけるようにして立っている。

  が回れ右をするよりも早く、その人影は振り向いた。

「ああ、 、か」

 孫策だった。

 よりによってと思いつつ、自分のような下っ端の顔と名前が一度で覚えられていることを は意外に感じた。

 孫策は体全体をこちらに向けると、窓に背中をもたせる。

「こっち、来いよ」

 今すぐ部屋に帰りたいと思う に、孫策から逆の命令が下される。 は舌打ちしたい気分になったが、従わないわけにはいかない。 は真っ直ぐに孫策に向かって歩みを進める。孫策は が近付いてくるのを待ちながら、目線だけを窓の外に飛ばしている。視線の先には、月があった。

「何を見てらっしゃるんですか?」

 孫策の正面で足を止めた は、分かっていることをあえて聞いた。世間話でもしないと間がもたないと思ったからだ。

「月だよ」

 孫策は月に向けた顔を動かさずに答える。風景として見るには妙に真剣なまなざしに、 はふと思い付いたことを口にしていた。

「何か思い出でも…?」

 言い終わらないうちに孫策の顔が急にこちらを向いた。同時に は襟首をつかまれ、ぐいっと引っ張られた。体が半回転し、位置が入れ替わって の背中が窓に押し付けられる。その拍子に格子が、がしゃんと音を立てた。孫策が の鼻先のすぐそばまで顔を寄せた。こんなに間近で孫策を見たのは初めてだと は思った。

「抱かせろ」

  を無視して、孫策は低い声で言った。次の瞬間、唇が押し付けられた。突然の行為に、わけが分からず の頭が混乱に突き落とされる。が、反発に似た感情もまた起こった。

「つ…っ!」

 孫策がうめいて顔を離した。口の辺りを手で押さえている。 がとっさにかんだのだ。 は孫策の腕を払い、両手で突き飛ばしてその隙に離れようとした。が、孫策がよろめいたのは一瞬だけで、すぐに の進路を塞ぐように正面に回りこむ。

 孫策が自分の唇を指で触れ、ついた血をなめた。

「痛ぇな。まぁ、このくらい気概のあったほうがおもしれぇけど」

 もう一度 に向かって腕を伸ばそうとした孫策に対し、 は姿勢を低くし、剣の柄に手をかけようとする仕草を見せた。

「おやめください」 

  は動揺を隠すため、孫策から視線をあえて外さずに声を発した。何を、とは言うまでもない。

「俺がそう言ってんのに?」

 返ってきた孫策の言葉に対し は、何様のつもりだ、と心の中で悪態をついた。が、口には出さないだけの分別はまだ持ち合わせている。

「承諾できることとできないことがあります。こういうことはきちんと手順を踏んでからなさることではありませんか」

  の手は剣の柄の近くで止まったままだ。もちろん本気で孫策に刃を向ける気などない。しかしこのくらいは見せないと、孫策は退きそうにない。

「お前、結構、腕が立つんだってな」

 孫策は の、構えの姿勢をとった腕を見やる。 の顔から首、肩をつたってようやく腕にいたった、そんな視線だった。

「じゃあ、俺と勝負しろ。お前が勝てば、帰っていい」

  はわずかに眉を寄せた。

 孫策は武勇においても、名高い。呉の武将の中でも孫策と互角以上に渡り合える人間は限られていると聞く。自分が勝つと信じているから出した条件か。

 だが、今の にとってはありがたかった。勝てばいいのだ。勝てばこの状況から逃れられる。

「…承知しました」

 その返事に頷いた孫策が から離れる。そして広い空間になっている中央に進んで、振り返った。背中に回していた棍を取り出し、構える。

  もそれに続いた。孫策の少し手前で足を止め、腰の剣に手を添える。

「参ります!」

「来い!」

  

  


 

 

 

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