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みちるもの(4)

 

 

 日が傾いてきたかしら…。

 小窓から差し込む光を見て、 は思った。

 静かに進んでいた輿は、唐突に止まった。

「おい、もう少しだろ。何で止まるんだよ」

 外から、男達の声がする。

「なぁ、この女、アジトに連れてったところで、結局売っちまうんだろ。もったいなくないか?」

 聞こえてくる言葉に、 は黙って目を開いた。

「だったら今のうちに…役得だろ」

 男達が何を言っているのか、 には分かった。わずかに身をよじったが、それだけのことしかできない。

 音を立てて扉が開かれた。男の腕がぬっと伸びてきて、 の体が輿の外に引きずり出される。

 地面に肩をつけた格好で、 の視界に入るのは、赤くなり始めた空と、自分を見下ろすいくつもの、顔。

 肩が誰かに押さえられた。蹴ろうとした足も、左右に一人ずつ、つかまれてしまう。

 別の手が胸元をはだけにかかる。

 そのとき、 の頭に浮かんできたのは、孫策のことだった。

 着物の裾がまくられる。

  はそれを他人事のように見ながら、出発前のやりとりを思い出していた。

 伯符さまは…。

 孫策の顔を思い出す。少し、すねたような表情の。

 まだ…怒ってらっしゃるかしら…。

 「悪ぃな」と言って部下達に話しかけていた孫策。そして、自分に向かって…。

 伯符さまは、何て言った?

  は自分の記憶違いかと思い、確認するように記憶を丁寧にさかのぼり、間違いでないと思った。

 孫策は、謝罪の言葉に、通常「悪い」を使う。

 でも、孫策は言う。自分には、「ごめん」と。

 孫策が意識的に使い分けているかどうかは分からない。それに、ひどく些細なことだ。

 些細なことなのに。

 …こんなに嬉しい。

  は目を閉じた。

  

 どのくらい馬を駆けてからだろうか。孫策の視界に、不自然な人影が飛び込んできた。

 数人…いや、もっといるか?そして馬の繋がれた輿。見覚えのある、輿。

 孫策は目をこらした。なぜ不自然なのかが分かった。連中の視線が一点に集中している。何かに、群がるように。

 嫌な予感がぐっと喉元に吐き気のようにこみ上げてくる。

「お前らぁっ!!」

 孫策は大声を発して、馬を更に飛ばした。何事かと気付いた男達がこちらを向く。人影が割れた。

 その中心にいるのは。

 求めていた、その人。

  …!!

  に一番近い男は、自分の下袴に手をかけようとしていたところだった。何が行われようとしていたのか、一目瞭然だった。

 その瞬間、孫策は体中の血が逆流するような感覚に見舞われた。次に来たのは視界が白むほどの怒り。

「ぶっ殺してやるっ!!」

 叫ぶと同時に孫策は手綱を離して馬から飛び降り、背中に回していた棍をつかんだ。取り出されると同時にうなりを上げたそれは、二本で二人の男の頭に叩き込まれる。男が衝撃で倒れる前に、孫策は棍を戻し、更に別の男の腹に打ち込んだ。先手を取られた男達がようやく闖入者に気付いて剣を抜きにかかった。

 孫策の反応は素早い。視界に光るものを捕らえると、近いほうの腕を使って棍で殴りつける。衝撃で飛ばされた男が別の男を巻き込んで倒れる。孫策は追い討ちをかけようとしたときに、後ろからの気配を感じて身をかわした。更に別の方向から、刃が襲ってくる。孫策は左の棍を腕にそえるように持ったまま、それを手甲代わりにして刃を受け止め、右の棍で相手の肩を力任せに砕いた。

 あと一人!

 最後の男を、孫策は正面から棍で打ち据えた。男の体に棍をめり込ませ、男がよろめくのを見計らってから腕を戻す。男が倒れた。

 孫策は、一瞬、視線を彷徨わせた。

  は? は!?

 猿轡をかまされた彼女が目に入った。こちらを見上げている。首を動かし、何かを言おうとしている。孫策が膝をつき、男の一人が持っていた剣で の戒めを切り、猿轡を解いたそのとき。

  が叫んだ。

「伯符さま!後ろー!!」

 一度は倒れたはずの男が、近寄ってきていた。孫策は振り向いて、とっさに自分の首を狙う刃を棍で受け止め、反撃する。男がのけぞる。だが、刃は一本ではなかった。別にもう一人いて、そちらのほうが、孫策の足を狙ったのだ。かわしきれなかった。

 左のももを切りつけられた。串刺しは免れたが、心臓が脈打つのに合わせて、血がにじみ出てくる。刃が再び襲ってきた。もう一度、棍で受け止める。が、刃は棍をすべって孫策の肩に食い込んだ。次の瞬間来たのは、焼けるような痛み。

 その隙を突かれた。膝をついたままの孫策の、傷を受けていないほうの腕が、男の足で踏みつけられた。

 やべぇ…!

 孫策が見たのは、自分の顔のすぐ横にある刃と、それを持つ男。そしてその向こうにもう一人いる。

「伯符さま!」

  の声が聞こえる。刃が止めを刺すために乱暴に引き抜かれた。孫策自身の血しぶきを飛ばして振り上げられる。

 が、孫策の予想した衝撃は来なかった。

「こいつ!離しやがれ!」

  が、その男に両腕でしがみついていた。不意を突かれた男は数歩よろめいてから を振り払い、突き飛ばした。 は背中から地面に叩きつけられ、仰向けに倒れた。

!!」

 孫策が叫んだ。

 

  は衝撃から我に返り、目を開けた。

 強く打ちつけたせいか、息を吸い込むときと吐くときに胸が痛む。眩暈がする。

  は肘を使ってそれでも顔を上げた。

 男の視線はすでに を離れて、孫策に移っている。孫策がこちらを見て何か叫んでいる。

 やめて。

 耳の奥がきぃんと痛む。

 やめて。

 男が孫策に向かって足を踏み出す。

「やめてっ!」

  は落ちていた剣をつかむと、空いたほうの手をついて一気に立ち上がった。よろめいた足を前進に変えて孫策と男の間に割り込み、 は叫んだ。

「この方から離れなさいっ!!」

 孫策が見たのは、細い腕を一杯に伸ばして、両手で剣を構える の後ろ姿。

 見慣れた華奢な背中だった。荒くれ者と渡り合うには、あまりにも華奢すぎる。敵うわけがない。孫策は目がかすむのを感じながら怒鳴った。

「聞こえねぇのか!!逃げろっつってんだろぉっ!!」

 孫策は の向こうに見える男がじり、と動くのを見た。

 立ち上がろうとするが、間に合わない。

 心が冷えた、そのとき。

 わずかに風を切るような音がして、 の正面の男が両膝をつき、それから前のめりに倒れた。背中に矢が突き立っている。

 風を切る音が続く。その隣にいた男が二本の矢を受けて倒れた。

 孫策が矢の飛んできた方向を見ると、砂塵を巻き上げながら馬で駆けてくる者を見て取れた。先頭にまず一人いて、その後ろに何人かが続いている。

!伯符さま!ご無事ですか!」

「伯言か!」

 孫策が人物の姿を認めて声を上げる。陸遜が更に矢を放つ。

「遅ぇぞ!何してた!」

 孫策の気付かないところで起き上がろうとしていた別の一人も倒れた。

  は目の前の脅威が除かれたことを知った後、はっとして振り返った。持っていた剣を投げ捨てるようにして、孫策のそばに膝をつく。

「伯符さま!大丈夫ですかっ!」

 孫策は自分をのぞき込む の顔を見て、にらむような目線を向けた。

!!」

 突然の怒声に がびくりと肩を震わせる。

「お前なぁ!!何で俺の言うこと聞かねぇんだよ!!」

 孫策の、怪我をしていないほうの腕がぐっと動いた。次の瞬間、 は襟首を乱暴につかまれて、膝をついたままで孫策のほうへ引き寄せられていた。

「馬鹿野郎…!」

 孫策はしぼり出すような声で言った。孫策の腕が襟首を離れ、 の背中を探るように動いた。そこにあるのを確かめようとするかのように。

「伯符さま、遅くなって申し訳ありませんでした。… も」

 陸遜が近付いてきて言った。

 孫策は一度唾を飲み込んで自分を落ち着かせてから、首だけを向けて返事をした。

「まったくだぜ。もうちょっとで危ないところだったじゃねぇか」

 孫策のそれは、冗談を含んでいた。

 が、陸遜は笑わなかった。黙って頭を下げると、宮廷に帰るために部下に指示を出し始めた。

 

 宮廷に戻った孫策は、医者から数日間の絶対安静を言い渡された。

  も結局別荘には行かずに戻ることになった。そしてその直後に熱を出したため、しばらく房に引きこもって休養にあてた。

 こうしてまたお互い顔を会わせない日が続いたが、孫策は、今度は気にならなかった。

「なぁ、公瑾」

 急ぎの決済を持ってきた周瑜に、寝台でふてぶてしく寝そべったまま孫策は言った。

「例えばだけどさぁ。ある男が殺されそうになってるときに、女が使えもしない剣持って、その男を守ろうとしたら、その女は男のことをどう思ってるんだと思う?」

 周瑜は片眉を上げて孫策を見た。そして逆に尋ねるように、一言だけ発した。

「君は愚か者か」

 

 


 

 

 

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