みちるもの(3)
門をくぐり、街道に出てしばらく、 は孫策のことを考えていた。 久し振りに見た孫策の顔には、苛立ちとやるせなさが混ざっていた。 本来、からりとした性格であるはずの彼が、ここまで引きずっている。少し時間を置いて、怒りが解けるのを待とう、そう思っていた は自分の見通しが甘かったことを知った。 孫策にそういう顔で見られるのはつらい。しかし、謝ろうにも何を謝ればよいのかが分からない。 結果として、一時しのぎに最低限の礼儀だけを守った受け答えになってしまう。 移動の話を周瑜を通して聞かされたときも、 は迷った。が、その話が孫策本人から出たと聞いたときに、孫策がそう言うのならば従おうと思った。これ以上細かいことでこじれるのは嫌だった。 その一方で は、この状況に対して自分の中で心構えをし始めてもいた。 いいか…。一人でいることには慣れてるし…。 どうってことはないよね…。 そうして輿の中で目を閉じていた は、輿が一度揺れ、止まったことで目を開けた。 まだ行程の三分の一くらいで、到着には遠い。道に石でも落ちていたのだろうかと考え、再び目を閉じようとしたとき、 は大声を聞いた。 「女が乗っているはずだ!確かめろ!」 そのすぐ後に悲鳴が聞こえた。それは護衛や御者のものだった。 ただごとではない、 がそう思った瞬間、輿の扉が乱暴に開けられた。見たこともない男がそこに立っていた。 「あんたが だな」 は返事をする前に、男の肩越しに外を見た。様子はよく分からないが、男達は数人はいるようだ。短時間で護衛が倒されたことから、もっといるかもしれない。服装は貴族らしくはなく、山賊か何かのようだ。が、なぜ自分の名前を知っている? 「あんたをさらえと頼まれたんでな。悪く思うな」 男はそう言って笑った。
そうして は、今、また輿に揺られている。違うのは、輿の周りを囲むものと、行き先だ。ついでに自分は猿轡を噛まされ、腕は後ろ手に縛られている。 これから自分はどうなるのだろうか… は考えようとしてやめた。ろくでもないことに決まっている。 何とか逃げ出せないかとも思ったが、腕を縛る紐はきつくてとても外せそうにない。仮に外せたとしても、複数いる男達の追撃を振り切って逃げるのは至難の業だ。 誰か来てくれれば… はそう思ったところで、自嘲したい気分になった。 一人でどうってことはないと思っていた矢先に、こんなことになるなんてね。 は軽くため息をついた。
あいつは… はどうしてるだろう。 孫策は、雲が半分くらい覆った空を見ながら思った。 そんなに遠い街ではない。昨日から周瑜も用事でそこへ行っている。 はそろそろ到着している頃だろうか。 その街の官吏が今、ちょうど庁舎に来ている。官吏が到着した時刻から逆算して、 とは街道の中間点くらいですれ違っていただろうか。孫策はたまたま廊下でその官吏を見かけた。 輿がそっちへ向かわなかったか、どんな様子だったか…。 官吏に声をかけようと足を踏み出しかけた孫策は、自分の意志でそれを押し止めた。 …あんなヤツのことなんて、知るか。 孫策は何事もなかったように、そのまま廊下を通り過ぎた。
やがて、夕刻が近付いてきた。 孫策は、ぐるぐる巻きになった書簡を開き、報告を書き加えようとして書き損じ、書き損じを訂正しようとしてさらに間違えた。 「ああ、くそっ!」 孫策は書簡の端から端を両手で一気にまとめると、力任せにへし折った。竹が砕け、繋いでいた紐からぱらぱらと破片が抜け落ちる。 「だめだ…」 孫策はそれを足元へ投げ捨てると、つぶやいた。 はどうしているだろうか。 別荘の居心地はどうだろうか。 移動で具合が悪くなったりしてないだろうか。 …気になってしょうがねぇ。 自分が考えているほどには、 は自分のことを考えてはいないかもしれない…それが悔しくて無視を決め込んだ。だが、それがどうしたというくらいに、離れているのは落ち着かない。 何で俺のそばにいないんだよ…。 隣街という提案をしたことを、孫策は後悔し始めていた。 が自分の手の届かないところにいる。そのことだけで、どうしようもなく心がざわめく。 孫策は口をへの字にしてしばらく動かないでいたが、観念したように大きく息をつくと立ち上がった。 「公瑾。俺、ちょっと出かけていいか?」 すでに外出から戻り、今は執務机に向かっていた周瑜は軽く目を上げて答えた。 「好きにしろ。例の別荘だろう」 言い当てられて、孫策は頭をかいた。が、次の周瑜の言葉でその手を止めた。 「下見とは、ご苦労なことだ」 孫策は不思議そうに周瑜を見た。 「下見?何のことだよ」 「たった今、君が言っただろう。出かけるのはそうじゃないのか?」 「まさか。 は今日とっくに…」 孫策の言葉に対し、周瑜は訝しげに眉を寄せた。 「 はもう出たのか?いつだ?」 「昼の少し前…だけど」 「君がこの前からそんな話をしていたから、私はそこへ寄ってからここへ来たのだ。念のため、手入れの状態を確認しておこうと思ってな。だが、誰かが入った気配はなかったぞ」 孫策は目を開いた。 「待てよ。それ、どういうことだ」 「伯符。 は何に乗せた?輿か?」 孫策は首を縦に振る。周瑜は低い声で言った。 「…すれ違わなかった」 間違いない。 孫策は唾を飲み込んだ。 何かあったのだ。 「公瑾!街の近辺を探してくれ!俺は街道を見てくる!」 「伯符!待て!護衛を連れて…!伯符!」 周瑜の言葉を最後まで聞かずに、孫策は飛び出していた。 厩で馬に飛び乗ると、市街を抜け、門をくぐって街道に出る。 風を切りながら、孫策は思った。 気付く機会は何度もあった。 あらかじめ到着を知らせるようにしておけば。 官吏に輿を見なかったか聞けば。 周瑜が庁舎に戻った時点で一言確認すれば。 自分がつまらない意地を張らなければ、もっと早く分かったはずなのに。 見慣れた街道を少し進んだところで、孫策は手綱をしぼって馬の歩を緩めた。地面に目を走らせることのできるぎりぎりの速度で、注意深く辺りをうかがいながら進む。やがて、孫策はあるところで目を止め、馬を下りて屈み、地面に片手をついた。 踏み荒らされている。 争った跡のようだった。 今日、街道近辺で事件の報告は入っていない。これだ、と孫策は思い、そのまま土を握り締める。そしてこの件に関する報告もない以上、護衛もやられたのだろうと推測する。ご丁寧に死体も隠されたようなのは、発覚を遅らせるための小細工か。では、 は…? こういうとき、女が殺される率は、男に比べて低い。利用価値があるからだ。 孫策はにらむように辺りを見回した。 …どこへ行った? ひんやりとした風が、草のにおいを運んでくる。 を、どこへやった? 孫策は地面を見た。雨上がりのそれには、車輪の跡が残っていた。 孫策はじっとその跡を見つめる。 連中は、輿を捨てなかった。そのままのほうが目立たないと思ったのか、あるいは捨てて隠すには大きすぎる代物だからか。いずれにせよ、輿の足は、馬のそれに比べてはるかに遅い。 追いつけるかもしれない。 孫策は再び馬に飛び乗った。 。待ってろ。 すぐに行く!
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