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みちるもの(2)

 

 

 まったく、おもしろくねぇぜ。

 孫策は机に向かったまま、一人つぶやいた。誰もいないのをいいことに、座ったまま、腰の位置よりも少し高いだけの机に両足を乱暴に投げ出す。衝撃で机が揺れ、置いてあった筆入れが中身ごと床に落ちたが、孫策は無視をした。両手を頭の後ろに組んで、天井を見上げる。

  を診た医者が報告にやってきて、そしてたった今、帰っていったところだった。

 

 初老の医者は言った。

「…疲労でございますね。こちらにおいでになってから、おそらくずっと気を詰めておられたのでしょう」

「そう、なのか」

 孫策は、疑問半分、了承半分のあいまいな相槌を打った。

 そんな風には見えなかった。初めこそ緊張していたが、物腰の柔らかさですぐに皆と打ち解け、うまくやっていると思っていたが。

「伯符さまはお気付きにはなりませんでしたか」

 孫策はぐぅとうめいた。

「まぁ、本人にも自覚はなかったのでしょうね」

 孫策をなぐさめるように、医者は言った。

「ゆっくり養生させておあげなさい」

「養生って…」

 自分とはあまり馴染みのない言葉に、孫策は聞き返した。

「休養と栄養。できれば静かな環境、ですかな」

 医者が答える。孫策は頷いた。

「…分かった」

 

 医者とのやり取りを思い出しながら孫策は、本人の自覚か、とつぶやいて舌打ちした。

 なるほど、医者の言うように自覚はなかったのかもしれない。でも仮に自覚はあったとしても、何となく は言わないような気が孫策にはした。

 ぶっ倒れる直前まで「大丈夫」を繰り返すようなヤツだからな…。

 孫策は苦々しげに表情をゆがめる。

「どうして俺に何も言ってくんねぇんだよ…」

 孫策は、 の房に足を踏み入れたときの光景を思い出していた。

 泣きながら、震えてた…。

 孫策はふっと視線を落とす。

 あんな は、初めて見た。

 なのに、話してるうちに は表情を変えていった。

 あるところから、いつもの…悪い意味でいつもの彼女になった。

 虚勢が必要なときはある。確かにある。でも。

 俺の前では、それが必要なのか?

 自分の前ではそういう虚勢は張ってほしくない。辛いとか悲しいとか寂しいとか言ってほしい。そう思うのは我がままだろうか。

 全然大丈夫には見えなかったのに、「大丈夫です」と言い切られたときの、あの鼻先で扉を閉められたような感覚がまだ残っている。

 「あなたは必要ありません」。そう言われた気がしたのだ。

 孫策は天井を見つめながら思う。

 もしかして、俺って、根本的に信頼されてねぇのかな…。

 そうして何度目か分からないため息をついた。

  とは、随分長い時間をかけて、結構な回り道もして、ようやく一緒になれたばかりだ。

 望んでることは叶えてやりたいし、何だってしてやりたいのに。

 孫策にはその準備がある。しかし が望まなければ意味がない。

 自分が要求をどんどん口にしていく性格であるために、そうでない人間の感覚は分かりにくい。

  のそれがただの遠慮なのか、本当に必要としていないのかが孫策には判断がつかない。

 こういうときに思い出すのは、初めて会ったときのことだ。

 助けに入ろうとした孫策を、 は止めた。

 あれが自分達の関係を、すべて物語っているような気がしてくる。

 ただそのとき、自分達はまだ他人だった。

 でも今は…。

 今は違う、はず、なのに…。

 違うと思ってるのは自分だけなのだろうか。

 心の距離は、悪い意味で変わっていないのだろうか。

「俺、お前にとって、何なんだよ…」

 その答えが、自分の望むものである確証が、孫策には持てなかった。

 

 同じ頃。

 実家と呼んでいる家の中で、陸遜は苛立っていた。

 主要な人間は外出だの来客だの物忌みだので、話をつけようにもその相手がいない。普段、待つことを苦にしない陸遜だったが、落ち着かないのは何となく時間稼ぎをされているような気がしたからだ。数日を無駄に過ごしたことで、陸遜は自分の当主としての立場が名ばかりであることを実感せざるを得なかった。陸家の意向はつかめず、むしろ自分だけに隠されているような気さえする。

 それはそれで構わない、と陸遜は思う。名だけでなく実を伴うようになるには、きっともっと時間がかかるに違いない。

 が、問題は だ。

 自分だけならいい。しかし彼女が絡むとなると…。

 実家で、 に関する何かが持ち上がっていることは間違いない。

 陸家の保身のために孫家に差し出された彼女を、今度はどうするつもりなのか。実家の者は何を考えているのか。

 根拠もなく持ち上がった最悪の想像に対して、陸遜は自分を落ち着かせるために深呼吸した。

 滅多なことはないだろうとは思う。

 宮廷内ならば、まず安全だ。

 第一、 の近くには、間違いなく孫策がいる。

 伯符さまの目が届きさえすれば、心配はないはず…。

 

を移す?しかもわざわざ隣街へか?伯符、どういう風の吹き回しだ」

 周瑜は、折りたたまれた紙の報告書を開こうとする手を止めた。合同で使用されている、広い執務室である。机に向かう周瑜の正面に、孫策が立っている。

「養生が必要だって、医者が言ってたんだ。だから…どっか静かなところで休ませるのがいいかと思ってさ」

 孫策は続けた。

「確か、お前が管理してる別荘があっただろ。あそこなんかいいと思うんだ。借りていいか?」

 周瑜はちょっと思い出すように視線を上に向け、それから言った。

「ああ、あそこか。それは構わないが…いいのか?」

 周瑜の問いかけに、孫策は意味が分からず「はぁ?」と返す。

「何がだよ」

 周瑜は軽く首をかしげる。

「寂しくないのか?」

 周瑜は何気なく言ったが、孫策の反応はすさまじかった。孫策は両手のひらを机に叩きつけて怒鳴った。

「それは俺がかっ!?それともあいつがかっ!?」

 ばぁんという音と突然の大声に、他に執務にあたっていた何人かがぎょっとしたように振り返った。周瑜は意に介した風もなく、報告書を折り目通りにたたみ直し、机に置いて言った。

「…怒るな」

「うるせえっ!!」

 孫策に決済待ちの書簡を渡そうとしていた文官が、今は避けたほうがいいとばかりに引き返していった。

 周瑜は孫策を正面に見たまま、静かに声を発する。

「…別荘はいつでも使えるようにしておく。君の好きにするといい」

 その落ち着いたまなざしに、孫策はようやく肩の力を抜いて、息を吐き出した。

「…悪かったよ」

「いや。私も余計なことを言ったようだな」

 すでに歩き出していた孫策は、聞こえてきた周瑜の言葉に軽く手を振ることで答えの代わりとした。怒りをぶちまけた後の独特の疲れを感じながら、孫策は執務室を出た。

 

 出発日となったのは、それから数日後である。

 天候が危ぶまれたが、朝から降り続いた雨は、昼前には上がった。

「伯符さま!準備が整いました!ご指示の通りです!」

「そうか。悪ぃな、無理言って」

 雨上がりの濡れた土のにおいをかぎながら、孫策は迎えの声に返事をする。このために孫策は個室になった輿を用意させた。輿は宮廷の入り口付近で横付けにされる。隣街へは数時間あれば到着する距離である。孫策は を待った。

 しばらくして、女官に付き添われて がやってきた。顔色はあまりよくないが、しっかりした足取りだと孫策は思った。

 あの日、 の房で別れてから、一度も会っていない。

 仕事をさぼってでも見舞いには行きたかったが、行ってどうなるのだろうという思いが孫策をためらわせた。

 見舞いに行っても、 に虚勢を張らせるだけだと孫策は思ったのだ。「具合はどうだ?」なんて間抜けな質問もしたくなかった。返事など分かりきっているのだから。

 孫策は に向き直った。

「…ごめん。俺、送らねぇから」

 門まで。いや街道まで。いっそ隣街まで。そう思いながら孫策はあえて言った。

「それで結構です。執務に専念なさってください」

  が穏やかに答える。いつもならば苦笑するところだが、孫策はとてもそんな気にはなれなかった。ここ数日、口もきいてなかったのに、普段通りの の様子は孫策は別の意味で落ち込ませた。

 用意された輿に、 が一人で乗り込む。侍女をつけようかという周瑜の言葉を、 は「身の回りのことくらはできますから」と丁寧に断ったのだ。その話を聞いたとき孫策は、俺以外のヤツでも断るんだなと変な感心の仕方をした。

  が振り向いて言った。

「伯符さま。お手数をおかけしました」

 孫策は返事をする代わりに乱暴に横を向いた。ただの挨拶言葉であるはずなのに、ひとつひとつが胸をえぐるように響く。

 近所でなくわざわざ隣街を指定したのは、「行きたくない」とか「離れたくない」とかそういう言葉を自分が期待していたからだと気付かざるを得ない。そしてその孫策の期待を裏切って、 は承諾した。

 こいつは本当に…。

 俺がいなくても、平気なのか…。

 黙ったままの孫策に、御者が声をかける。

「伯符さま。では、向こうに到着しましたら折り返しご連絡を…」

「いや、いい」

 孫策は首を横に振った。「は?しかし…」と言いかけた御者を、孫策はさえぎった。

「いいっつってんだよ。そんなこと、いちいち報告しなくていい。あっちに着いたら、お前らは適当に遊んで、それから帰ってこい。報告はそのときでいい」

 お前がそうなら、俺だって。

 子供じみたあてつけだった。横でやり取りを聞いていた数人の護衛も、戸惑ったように顔を見合わせた。護衛の数も、少なくなくはないが、特別多くもない。孫策は輿を見たが、すでに扉は閉められ、 の顔は見えない。

「では…」

 御者が馬に鞭をあてる。

 だがそれより早く、輿が動き出すのを待たずに、孫策は背を向けた。

  

  


 

 

 

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