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みちるもの(1)

 

 

「いたた…」

  は頭痛と吐き気に耐えながら、自分の房で横になっていた。

 夕刻前の、本来ならばまだ宮廷にいる時間である。

 しかし昼を過ぎた辺りから急に調子が悪くなり、早めに退出させてもらったのだ。

 自分で少しでも楽な姿勢を探しながら、これ以上悪化しないよう、意識的に静かに呼吸をする。

 季節の変わり目に疲労が重なったような場合、こんな風に体調を崩すことがある。

 自分で分かっている症状だ。

 だから頭が締めつけられるように痛いのも、気持ちが悪いのも、我慢できる。

 

 だが、困るのは心が弱くなることだ。

 こういうときは、こちらへ来る前の、ろくでもない思い出ばかりが頭をよぎる。

 思い出と呼ぶには生々しい、ついこの前までの現実から、はるか昔のことまで、記憶はさかのぼる。

 身の置き所のなさ。明らかにこちらを侮辱するためだけに吐かれる言葉。言い返せない立場の弱さ。自分に対する情けない思い…。

 こういうときには、楽しいことを考えようとしても、どうしてもうまくいかない。

 そんな目に遭うのは一度で十分のはずのことを、自ら思い出すことでもう一度体験することになるのだ。

 

  は振り払うようについ頭を動かし、そうしたことによって襲ってきた刺すような痛みに顔をしかめた。額を指で押さえるようにしてそれが静まるのを待つ。

 こういった記憶の対処法も、自分では分かっている。

 それは翌朝まで辛抱することだ。

 一眠りすれば、明日の朝には気分が良くなっているはずだ。しばしばあることだけに、そうなることは分かっている。この最悪の気分も、朝までだ。

 大丈夫。

 私は大丈夫。

 自分の肩を両手で抱きしめるようにして、 はつぶやく。

 

 実家のことを思い出すのは、昨日のことが原因だろうと は思う。

 たまたま廊下を歩いていたときのことだ。

 何となく聞こえてきた話し声に、 は足を止めた。声は近くはなく、そのまま声だとすら気付かずに通り過ぎるはずだった。が、その声を の耳が拾ったのは、その中に自分の名前が含まれていたような気がしたからだ。

「… の進退が、自分達に関わると思っているんでしょうね」

 声は続く。やっぱり私のことだと思い、 はその方向に首を向ける。閉められた扉があった。

「…またいつもの過剰反応でしょう。どうかしてますよ…ん?」

 あ、と は思った。次の瞬間、扉は内側から開かれて、 の前に陸遜が現れた。

「…ああ、 でしたか」

 陸遜は廊下に感じた気配が であると認めると、表情を変えて控えめに笑った。

「聞こえましたか?」

「伯言さま、すみません。私の名前が聞こえたような気がしましたので…」

  は謝った。

「そうですね…あなたの話ですね」

 陸遜は言いながら を手招きする。陸遜は を部屋に入れると、静かに扉を閉めた。 が部屋の奥を見ると、陸遜が話をしていたであろう男が立ち上がってこちらに礼をした。

「僕の腹心です」

  が尋ねるより早く、陸遜は言った。

「…実家の」

 そう付け加えて、陸遜は苦笑に近い表情をとった。実家と聞いて、 は怪訝そうに陸遜を見る。

「実家は、あなたのことを『心配』しているそうです」

  はそれを聞いて、眉をひそめた。

「…色々と気になることもあるんでしょうね」

 陸遜は続ける。 の胸に漠然とした不安がわき上がる。

「僕は少し実家に帰ることにします。話をしてきますよ」

 陸遜は を見て、落ち着いた声で言った。

「あなたは何も心配しなくていい」

 

 実家。陸家。

  は心の中でつぶやく。

 実家と自分を結ぶものは、もう何もない。あるとすればすべて過去の話だ。

 ましてやこちらは追い出された身である。それはこちらとしても望むところであったけれども、それで今更つべこべ言われる筋合いは一切ない。

 だが、いかなるかたちであれ、実家と自分とのつながりを認識するのは、ひどく不愉快だった。

 …関係ない。

  は反芻する。

 ここは呉都であり、宮廷の中だ。

 陸家なんか関係ない。

 

 だが意識とは裏腹に、一番思い出したくない記憶がよみがえってくる。

 かたく閉じたまぶたの裏に容赦なく映るのは、身内と呼んでいた人に追い詰められた父の姿。

 自分は…何もできなかった。

 子供の手でそれを止めることは難しかっただろうとは思う。

 だが、命乞いをすることも、助けを呼ぶこともできなかった。思い付きさえしなかった。

 そして、仇を取るために足を動かすことも、後を追った母を止めることも、さらにその後を追うことも。

 本当に、何もできなかった。

 ただ、呆然としていただけ。

  はもう一度頭を振った。

 立ち尽くす自分の姿を追い出すために。

 不愉快だった。痛みのほうがまだましと思えるほど。

 これ以上、考えたくない。

 考えたくない…。

 

「おいっ! !大丈夫か!」

 突然耳に飛び込んできた声が、 を我に返らせた。

「伯符さま…?」

 孫策が寝台のそばから身を乗り出し、横になったままの の頭の両側に両手をついて、不安げに彼女を見下ろしていた。

「都合悪いか?どっか痛いか?医者呼ぶか!?」

 孫策が声を荒げる。孫策の様子がただならぬものである理由を、 は何となく自分の頬に手をやったときに理解した。

 涙で濡れている。気付かぬうちに泣きながらウトウトしてしまったらしい。

 表情を変えずに自分の指を見ながら、 は言った。

「…何でもありません。心配をおかけしました」

「何でもねぇわけねぇだろっ!具合悪くて早めに上がったって聞いたぞ!」

 ああ、それで。

 来てくれたんだ、と は思った。

 ささくれていた胸のうちに、ほんわりとしたものが宿る。 はわずかに表情を緩め、静かに言った。

「…体のことなら大丈夫です。寝ていれば治ります」

 その言葉に、孫策は眉を寄せた。

「じゃあ何で一人で泣いてんだよ」

  は黙った。

 実家について、詳しいことを孫策に言ったことはない。孫策に告げた場合、ただでさえ因縁のある陸家に関することだけに、単なる愚痴では済まなくなる可能性があるからだ。

  が答えないので、孫策は続けて言う。

「俺に言えないことか?」

 是とも否とも言えず、 は別の言い方で答えた。

「…詮ないことです。大したことはありません」

  の言葉に、孫策はやれやれというようにため息をついた。一度上体を起こし、改めて寝台に腰掛けて体をひねり、 に向き直った。

「そうは見えねぇけど」

 孫策は の頬に張り付いた髪を指で顔の横に流した。そうしてから の片手を取る。そして の指と自分の指とが交互になるように絡ませ、親指で の親指のあたりをゆっくりとなぞった。

 つながれたところが、あたたかい。

 そうしてもらって、 は初めて自分がそうしてほしかったことに気付いた。

「本当に平気か?」

 平気かと訊かれれば…。

 孫策の問いに、 はふっと目を細めた。

 実家で、よく一人で泣いていたことを思い出す。

 いつも、こういうとき、一人だった。

 だから…今も、一人で平気だ。

 平気じゃないわけがない。私はそうしてやってきたんだから…。

  は言った。

「私なら、大丈夫です。もうお戻りください。皆さん、お待ちだと思いますが」

 それを聞いた孫策は、しばらく黙ったまま の顔を見ていた。

  は違和感を感じた。こういう孫策は珍しい。いつの間にか孫策の指は動きを止め、その表情はかたいものになっていた。

「あのさぁ、

 口を開いたのはさらに少し経ってから。

「お前がそれで大丈夫っつーんなら大丈夫なんだろうし、お前が行けっつーんなら行くけどさ」

 孫策は手を離し、真顔のまま立ち上がった。

「お前…いつもそうだよな」

 孫策は部屋を出るために歩き出した。足音が少し高い。孫策は機嫌の悪いときにそういう歩き方をすることを は知っている。

 扉のところで孫策は立ち止まった。わずかに振り返るようにしたのは の方向に声を飛ばすためであって、 を見るためではない。

「俺って、そんなに役立たずか」

 ぶっきらぼうにそう言うと、孫策は出ていった。

 残された が何か言いかけるも、孫策の姿はすでにない。

 そんな、つもりじゃ…。

 孫策がもういないことを知りつつも、 は上半身を起こして扉のほうに顔を向けずにはいられなかった。

 ご不興を、買ってしまった…。

 孫策が一方的に会話を打ち切って出ていくなんてことは初めてだった。怒っているのだ。

 せっかく、来てくれたのに。

 視界をさえぎる衝立を、 は見つめた。

 私は、何をしてるんだろう…。

 残るのは、どうしようもない自己嫌悪。

 そのとき、猛烈な不快感が を襲った。

  が泣きながら桶に嘔吐しているのを見付けたのは、様子を見にきた仲の良い女官だった。

 

 


 

展開は特に奇をてらったものではなく、お約束通りなので先は読めると思います。

よろしければ最後までお付き合いくださいませ。

 

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