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暈ある月の夜(前)

 

 

 俺は、暈(かさ)のある月が嫌いだ。

 月を囲むように紫っぽい虹のかかる、あれだ。たまにあるよな。

 空ばかり見てるわけじゃねぇから、俺が今まで見たことがあるのは二回。そしてその二回っていうのは、俺が女を得ようとして失敗したとき。

 一回目は、真面目に求婚に行って断られた。

 二回目は、それなら攫おうとして逃げられた。

 いや、こう言い切ると語弊があるかな。別にそいつ自身が断ったり逃げたりしたわけじゃないから。結果としてそうなったってことだ。 

 そして、どっちも同じ女。

 そいつは っていう。

 

 そもそもの始まりは、俺んちがまだ売り出し中…早い話が弱小だった頃。

 俺がちょっとしたお使いで西のほうの街に行ったときのことだ。

 若い女が、そいつの家らしい門の前で、何人かの男に絡まれていた。見た目、おとなしそうなその女… は、ひたすら頭を下げてた。

「どうなってんだよ、お前んとこのは!」

 男の一人が怒鳴った。

「大おじには私からよく言っておきますので…申し訳ございません」

  は控えめに、それでいて落ち着いた口調で言った。

 俺は黙って聞き耳を立てていた。いつもなら問答無用で首を突っ込むところだが、そうしなかったのは の様子に何となく…本当に何となく興をおぼえたからだ。

 話の前後から推測すると、 の家人が何か男達に迷惑をかけたらしく、それで に文句を言っているようだった。

 男達の声が荒くなった。危ういものを感じた俺が踏み込もうとしたとき、 がそれを制するようにわずかに手を動かすのが見えた。

 俺は驚いた。 は連中の相手で手一杯に見えたのに、ちゃんと俺に気付いていたからだ。

「…ええ、本当に、ご迷惑をおかけしました」

 いつの間にか の口調がまとめに入っている。男達はぶつぶつ言いながら声をかけ合い、立ち去る素振りを見せ、しぶしぶといった感じで歩き出した。

  は頭を下げてそれを見送った。男達が角を曲がるまでそうして、角を曲がったところで は思い切り顔をしかめてべぇとやっていた。

 それを見て俺は吹きそうになった。

 なんてヤツだ。

 我慢したつもりが、声に出たかもしれない。そこで初めて は俺のほうを見た。

「あ、ごめんなさい。つい、いつもの癖で…」

 いつもやってんのか、と俺が言うと、 は苦笑するだけで、それには答えなかった。その代わり、「それより」と口調を改めて は言った。

「先ほどはありがとうございました」

「俺は何もしてねぇよ」

 俺は答えた。 は「いえ」と首を横に振った。

「来てくださろうとしたのが分かりました。そのお心に感謝いたします。味方がいると思うだけでも結構勇気が湧いてくるものですから」

  はそう言ってちらりと男達の消えていった角を見た。俺は尋ねた。

「何か、揉めてたのか」

  は、そうですね…と言葉を濁す。

「あまり大きな声では言えないのですが…家族の者で、少し難のある者がいまして…無礼なことを言った言わないって話になることがときどき…」

 身内のことですから関わらせてはご迷惑かと思いまして、と付け加える。

「そんなことかよ。よくある話だとは思うけど、別にお前が言ったわけじゃないんだろ?なんであいつらも直接本人に言わねぇんだ?」

 俺がそう言うと、 は、ですから、と続けた。

「文句を言いたいだけの手合いですよ。散々しゃべらせておけば、そのうち気が済んで帰っていくんです。大したことはありません」

 そう言って は軽く笑った。

 

 こうして と知り合った俺は、暇を見付けてはちょくちょく会いにいくようになった。話をするうちに、分かったことがいくつかあった。

 生まれは東のほうで、姓は陸。 はあえて言わなかったが、呉の四姓と言われる名門の一つ、陸家だ。両親はすでに他界してて、大おじと呼んでいる人物の元に身を寄せている。それが今住んでる家。

 俺は気付いたら、 のことばかり考えるようになっていた。

 俺は、もの思いにふけ の横顔が好きで、それでいて俺が呼びかけると俺のほうを見てにっこり笑ってくれるのはもっと好きだった。

 「伯符さま」と呼びかける の落ち着いた声も耳に心地よくて、ときどき困ったように言いよどむのも気に入って、そのうち何でもよくなった。

 俺は何だかんだ理由をつけながら足しげく通ったから、俺が に惚れてんのは、バレバレだったと思う。

 俺はある日、決心をして赤色の翡翠の玉の髪飾りを手土産に の家を訪ねた。目的はもちろん、求婚するため。

 だが、結果は散々だった。 には会えなかったばかりか、「孫家ごときの若造が、何をほざくか」とけんもほろろの扱いだった。それっきり俺は に会わせてもらえなくなった。手紙も握りつぶされているようだった。いっそ忍び込もうかとも思ったが、残念ながら警護が固くて諦めざるを得なかった。

 追い返された日の夜、俺は髪飾りを真っ二つにへし折った。そして見たのが暈のある月だった。

 これが一回目だ。

 

 そして二回目はというと。

 それより少し後のことだ。江東のあちこちが剣呑な雰囲気になっていた中、糧秣を出す出さないで陸家お偉いさんと揉めた結果、俺が一戦交えることになった。標的は、 のいる街。戦は戦としてもちろん勝つつもりでいたけど、俺が考えてたのは、そのどさくさで を連れ出せないかということだった。

 ところがだ。俺が手を打つ前に、陸一族の一行がすでに脱出したらしいという知らせが入った。俺は馬に飛び乗って、すぐに知らせのあった方向に走った。後に続くやつらを振り切って単騎で駆けていくと、街道から少し外れたところに荷馬車が見えた。

「おい!陸家の連中か!」

 俺は馬上から声をかけた。そこにいたのは、薄い色の髪をした、俺より大分年下のガキ一人。怖くて声も出ないのか、口をぱくぱくさせている。埒があかない、そう思った俺は、そいつの胸倉を掴むために馬から降りた。後で俺はそれを痛烈に後悔することになる。

「ここにいるのはお前だけか!」

 俺は を目で探した。その一方で、周りに警戒しながら。先手を打たれたあたりで、何やら計画的な感じがしたし、そしてそれにはリーダーがいるはずだと思ったからだ。

「旦那様を…待ってるんです」

 そのガキは泣きそうな声で言った。

「はぐれてしまって…ここにいれば…会えると思って…あ!」

 そのガキが、何かに気付いたように視線を移した。俺もつられてそこを見た。つい、腕を緩めた。その瞬間。

 ガンッ!

 そのガキが隠し持っていた鈍器で、俺は頭を殴られた。とっさに急所は外したものの、強烈な痛みと眩暈に襲われて俺は思わず膝をついた。そうしながらも腰にさしていた剣を抜き放った。ガキは機敏な動作で後ろに下がってかわした。

「仕留められませんでしたか…。さすがにしぶといですね」

 ガキは言った。こいつがリーダーだったんだと、俺は思った。

「残念ながら時間がありません。ああ、でも折角ですからこの馬はいただいておきましょうか」

「待て…! はどこだ…!」

 俺の声に、ガキは眉も動かさずに言った。

「僕は を守るように言われています。あなたに明かすわけがないでしょう」

 後で知ったことだが、このガキは囮で、陸家の脱出組は反対方向からゆるゆると離れたらしい。おそろしく単純な手に、俺は引っかかってしまったのだ。

 戦そのものは、俺たちの勝利だった。包囲戦になったため、残ったほうの陸家の連中に多数の戦死者と餓死者を出して、街は陥落した。そこに の縁者もいたのかどうか、俺は知らない。とにかくこれで俺は陸家の恨みを一身に背負うことになった。

 こうして、孫家と陸家の仲は最悪になる。

 婚姻がどうのという雰囲気では、間違っても、ない。かっ攫おうにも俺がのこのこ行けば連中は俺を八つ裂きにしようとするだろう。そうすると軍を連れていかないといけないが、戦を長引かせる不利益の分からない俺じゃない。

 諦めるしか、ない。

 たかが女一人。

 俺の目も、そこまでくらんじゃいない。

 

 …が。 

 本当はくらみかけてた。

 さらにその後で、公瑾が、前から攻略にかかっていた街を、遂に落としたときのことだ。

 その土地で、美人として名高い姉妹の、妹のほうを公瑾が憎からず思っているのは知っていた。

 んでその姉妹が戦火を避けて家族で土地を離れようとしていたところを、公瑾は追った。

 …どっかで聞いたような話だか、結末は違う。

 抜け目の無い公瑾は、姉妹が家族とともに逃げようとしていたところを…あいつの言葉を借りれば「保護した」らしい。公瑾の話を聞いているうちに、俺は苛立ってきた。

「は…それで、そいつを妻にすんのか?」

 俺が言うと、公瑾は頷いた。

「そういうことだ。今はまだ戦乱のショックもあるだろうから、もう少し落ち着いたら話してみようと思っている」

 それを聞いて俺は、怒りにも似た感情が一気に膨らむのを感じた。

「じゃ、姉のほう、俺にくれよ」

 俺はその感情を抑え切れなかった。

「なんだと。どういう風の吹き回しだ」

 公瑾が眉をひそめる。

「うるせぇよ。この俺が夫で不満があるなら言ってみろってんだ」

 俺は歩き出していた。

 身代わりを求めてどうする、という理性は簡単に無視された。

 俺はその足でずかずかと姉妹の房へ行き、姉のほうを連れ出して、自分のものにした。

 俺の望んだ結末は、ここにはない。

 ここにいるのは じゃない。

 それは分かってはいたけれど。

「くそっ!」

 俺は真っ二つに折れた髪飾りを見ながら思った。折れた半分…髪に挿すほうの部分は無くしてしまったが、飾りのほうはまだ持っていた。

 腹立ちまぎれにそれを床に叩きつけると、飾りの玉の部分と、申し訳程度に残っていた柄の部分のつなぎ目が音を立てて壊れた。

 俺は前と同じように外を見た。暈のある月が輝いていた。

 

 そして、現在。

 俺はその玉を。

 まだ、持っている。

 

 


 

 

 

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