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暈ある月の夜(後)

 

 

「伯符。陸家からのお客様だ」

 周瑜の声に、孫策は顔を上げた。

「ああ…分かった」

 指のものを弄びながら、孫策は答えた。周瑜はちらりとそれを見たが、何も言わずに室を出ていった。

 孫策の手の中にあるのは、髪飾りの玉の部分だった。その赤い翡翠は意外と頑丈で、度重なる衝撃にも壊れることなく玉の形を保っている。

 結局、捨てられなかったよな。

 手の中のそれは、自分の未練そのもの。孫策は自分の諦めの悪さに苦笑するしかなかった。

 

 いつまでも膠着すると思われた状況は、あるとき変わった。

 妥協は、陸家のほうから行われた。当主である人物が、孫家に出仕を願い出ているという知らせを聞いたとき、孫策はにわかには信じられなかった。出仕するということは、臣として下るということだ。

「陸家が敵対関係を続けられなくなったのは、それだけこちらが強くなったということだろう」

 訝しがる孫策に、周瑜は言った。

「こちらとしても陸家の協力を得るのはありがたい。この話、受けるべきだな」

「…そうだな」

 孫策は頷いた。反対する理由はない。

 そして出仕を歓迎する旨を発表した後、孫策は思った。

 陸家との仲が改善に向かった今なら に会えるかもしれない、と。

 孫策は の家の者宛てに、手紙を送った。「 のことで、早急に相談したいことがある」とそれだけを書いて。「若造」はともかく、孫家「ごとき」とはもう言われないはずだった。

 出仕にやってきた陸家の当主をわざと通さずに、孫策は話を進めた。その当主が陸遜…薄い色の髪をしたあの少年だったからである。

 この期に及んで邪魔されちゃ、かなわねぇからな。

 孫策はそう思って、陸遜を宮内に留め置く一方で、 の家族に連絡を取った。 宛てでなく家族宛てにしたのは、陸家との仲も改善に向かった今、妻として迎えるために話はつけておこうと思ったからだ。

 

 その返事が、もう来たという。

 家人が、 本人を連れて。

 嬉しいはずなのに、孫策は違和感を覚えた。

 どういうことだ…?

 

 孫策は広間で、目の前にひたすら平伏する男を半ば呆然として眺めていた。男の後ろにはやはり平伏する がいた。 の隣には宝物らしい箱が積まれている。 の位置は宝物…孫策から見ればガラクタと…同格だった。

 男は の言っていた大おじだった。「この娘と宝物を献上いたします」と、大おじは言った。

「ご存知かもしれませぬが、 は先々代の兄の娘でございます。血筋は申し分ないかと存じますが、しかし将軍がここまでお目をかけてくださっていたとは露知らず、大変失礼をいたしました。それが分かった今、少しでも将軍のお役に立たせたいと思い、連れてまいった次第でございます。わずかですが我が家の宝物もお持ちしましたので、合わせてお収めいただければと…」

 孫策が黙っているのを、大おじは何を勘違いしたのか、さらに言葉を続ける。 

「あ、いえいえ、妻になんて、そんな大それたことは申し上げません」 

 大おじは卑屈な笑みを浮かべてまくしたてた。

「官妓になさるなり、どなたかに下されるなり、どうかお気の済むようになさってください。孫家と陸家の安泰に少しでも貢献できればと思いまして…」

 大おじの言い分を聞くうちに、ようやく孫策にも事態が飲み込めてきた。

 大おじは、かつて孫策に言ったことを覚えていた。力関係が逆転した今、届いた手紙でそれを罪に問われると思ったのだ。しかも頼みの綱の当主は宮廷に留められている。それで何とか怒りをかわそうと、ご機嫌を取ろうと、残った人間で出した結論がこれだったのだ。

『この娘は差し上げますから好きなようにしてください。その代わり私たちの命は助けてください』

 言外に込められた意味に孫策は、かっと頭に血が上るのを感じた。

「ふざ…!」

 ふざけるな、と言おうとしたところで、視界に が入った。

 わずかに、意識して見ないと分からないくらいにわずかに、孫策を制すように手を動かした。

 あのときと同じように。

 こじらせる必要はない。

 争いの火種を作ることはない。

 これでまとまるのがいい、と。

 孫策は、つめていた息を吐き出した。

  …!

 そして両の手のひらをこぶしにして握り締めていたのを緩め、ようやく言った。

「分かったよ…」

「で、では!」

 助かったと言わんばかりに男の顔が喜びにゆがんだ。

「分かったっつってんだろ!もういい!」

 孫策はその場にいる者を残して広間を出た。

 何も見たくなかった。

 

 自室に戻った孫策は、しばらくぼんやりしていた。

 その間にも陸家との協力体制や、その調整に関する報告を受けたが、耳には入っても頭には入らなかった。だが、あの大おじが退出の際に、回廊のかなりの高さの段差から落ちて怪我をしたという話だけには反応を示した。孫策が「ざまぁみろ」とつぶやくのを、報告した官吏は聞いた。

  には、宵に来るよう、言伝てある。孫策はただ、待った。

 やがて。

「お客様をお連れいたしました」

 女官の声がした。案内されて進み出たのは、 。静かな面差しだった。孫策は だけを室に招き入れて、女官は下がらせた。

 二人きりになった。

「久し振りだな」

「はい」

 孫策の声に、 が答える。懐かしい声だ、と孫策は思った。

「元気だったか」

「はい。と…」

 言葉を返そうとする を、孫策は気付くものがあって遮った。

「殿なんて言うなよ。伯符でいい」

  は少しためらった後、分かりましたと頷いた。そうして、伯符さまもお元気そうで、と続ける。

 孫策は「ああ」と返事をする。

 そうして少し間を置いてから、思っていたことを孫策は切り出した。

「お前に、謝らないといけないな」

「何をでしょうか」

  の受け答えは静かだ。

 まずは陸家の人間とは避けては通れない問題を孫策は口にした。

「俺は…お前の一族の敵だ」

  は「そのことですか」と顔を上げて言った。

「私が身内だと思っている者はすでに同族の手によって亡くなっています。ですから伯符さま個人に対して因縁はありません」

 孫策は、先々代の兄の娘という言葉を思い出していた。頭目争いでもあったのだろうか、と思ったが口には出さなかった。いずれにしても気を晴らすものではない。

「そっか…でも…それだけじゃない」

 孫策は続ける。

「お前のことはずっと欲しかった。でもこんな風に…」

 人質ですらない扱いで、差し出させてしまった。

「手に入れるつもりじゃなかった」

 孫策がそう言うと、 は、ふっと目を細めた。そうすると、とても優しげな表情になるのを、孫策は知っている。

「伯符さま」

 表情を曇らせたままの孫策に、 は穏やかな口調で言った。

「存じています。ですから、どうかそのようにはお考えにならないでください」

 孫策は言葉に詰まった。

 慰められるべきは自分ではないのに。

「…でも」

 孫策は言った。

「いいえ」

  は続ける。

「はしたないことを申し上げるようですが、私も伯符さまをお待ちしていましたから」

  の言葉に、孫策は腕を伸ばして を自分のほうに抱きしめていた。少しきついくらいのそれは、孫策の感情の表れだった。孫策はなおも言う。

「でも俺がお前を…家にいられなくした」

  はしばらく黙っていたが、わずかに身体を動かした。孫策が気付いて腕を緩めると、 は自由になった両腕を伸ばして孫策の頬に両の手のひらを添えた。その片方の手を孫策は自分の手で掴んだ。射すくめるような、冗談を許さないまなざしだと は思った。

「いいえ、伯符さま。私が思ってるのは…」

  はその続きを小さな声で言った。

 …その追い出された先が、伯符さまでよかった…。

  の言葉に、孫策は睨むように目を細めた。孫策は の顎を片腕で捉えると、乱暴に上を向かせて口付けた。 が応えるのを待たずに、奪い尽くすように、深く、激しく。

 孫策はより深く貪るために身をかがめると、 は空いているほうの腕を孫策の首にそっと投げかけた。

 呼吸を求めるときでさえ唇は軽く触れ合ったままで、一瞬だけお互いを見つめ、首をそれぞれ今度は逆の方向に傾けて、再び唇を重ねる。何度も、何度も。

 孫策は言った。

「だったら… 。俺の側にいろ」

 孫策は、 の頭を自分の胸に押し付けるように抱きしめながら言った。うつむいたような格好の の頭のてっぺんのほうに、柔らかな感触があった。孫策が唇を落としたのだ。

「…俺はもう…待てない」

  の髪に口付けながら孫策は言った。 は顔を上げないまま、黙って頷いた。

 孫策は首を動かして室の一角を見た。衝立の向こうには寝台がある。孫策は身体を傾けると、 の脇と膝に両腕を差し入れて一気に抱き上げた。

  は気恥ずかしさで、寝台が視界に入らないよう、何となく目をそらした。

  が寝台に横たえられると同時に、孫策が覆いかぶさってきた。孫策は にもう一度口付けて、唇を離さぬまま、 の衣服に手をかけた。

 

「…私は伯符さまにお礼を申し上げないといけませんね」

 抱き合う最中、ふと思い付いたように が言った。

  の喉のあたりに口を付けていた孫策は顔を上げた。

「何のことだ?」

「…大おじの口上の途中で…私の自惚れでなければ、そのお心に」

 ああ、と孫策は思った。自分は の扱われ方に対して腹を立てたのだ。大おじと、大おじを追い込んだ自分にと。

 孫策は頭をかく。照れと、申し訳なさを隠すために。

「あのお前の大おじって最低だよな。俺、一発殴っておけばよかったぜ」

「その必要はありませんよ」

  は言った。

「なんでだ」

 孫策が不満そうな声を出す。

  は答えた。

「私がやりましたから」

 孫策は一瞬、 を見つめ、やがて思い当たって笑い声をあげた。

「あの、段差から落ちたって話か?」

「はい。後ろから蹴飛ばしてやったんです」

 よくやった、と言いながら孫策は の耳の下から首にかけて口付けた。 はくすぐったい感触に肩をすくめる。

 孫策はさらに下のほうへ唇を這わせる。 の腕が孫策の頭を軽く抱くように動かされる。

 

 二人だけの時間が流れる。

 

 孫策はふと、格子の隙間から窓の外を眺めた。

 月が昇っている。

 暈は、無かった。

 

 


 

い、いかがでしたでしょうか…って、孫堅がいるのに孫策が陸康を攻める流れって在り得るの?盧江攻めの後、江東平定までヒロインはお嫁に行かずに何してたの?そして大喬ごめんなさいです。

不自然すぎるにもかかわらず、管理人のドリームにお付き合いくださってありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたのならよいのですが(汗)。ちなみに未確認情報ですが、中国で権力のある男性が第一夫人に贈るのが翡翠、第二夫人はダイアモンドだそうです。

 

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