上つ瀬
《三》
気付いたときには走り出していた。 周りの者が制止したかもしれない。 だが自分はそれを聞かず、馬に飛び乗った。 何も考えたくない、もうたくさんだと思って。 信じられない、どうしてこんな。 そんな言葉ばかりが飛び交う頭の中は滅茶苦茶で。 だから気付くわけがなかった。今度こそその矢が自分に飛んできたことに。 今ならそれは間違いなく自分に届くだろう。 なぜなら先に盾となった娘はもう自分の隣には。
だが矢が自分の体を貫く直前に。 何かが触れたような気がしたのは。 夢か、現か。
「うわあああああああっ!!」 思わず吸い込んだ息に喉を鳴らしながら、孫策ははっと顔を上げた。 床に腰を下ろし、寝台にうつ伏せにもたれかかっていた。枕にしていた両腕がしびれている。 たった今触れた何か…自分を悪い夢から引き戻したそれがもう一度孫策に向かって伸ばされた。 「伯符さま…」 「 …!!」 娘の指先を、孫策は夢中でつかんだ。 「うなされて…おいででしたので…」 は申し訳なさをにじませながら言った。どうやら自分を起こしたことに謝意を示しているらしい。 「い、いいよ、そんなこと」 孫策が慌てて答えると は「そうですか…」と表情を緩める。 そのときわしづかみにされた指がわずかにねじるように動かされたことに孫策は気付いた。その仕草の意味は自分だけが知っている。「ちゃんと握って」の合図だ。 孫策は一度力を緩め、だが手のひらは触れ合わせたままで自分の指を の指に交互に絡める。 の指が弱々しくではあるが握り返すように動いたのが分かり、孫策は一層の力を込める。 「傷、痛むか…?」 「ええ…」 孫策の問いに は答えた。声の中には吐息が混じっている。そしていつもよりもずっと小さな声だ。 「辛いか?」 「…楽では…ありませんわね…」 「だよな…」 それでもその声はひどく懐かしく聞こえる。 「伯符さま…」 そう、こんな風に、自分を呼んでくれる、静かで優しい声。 ずっと聞きたくて、聞いていたくて、これからも聞きたい声。 次に来る言葉は彼女の表情で分かった。 「伯符さま…泣かないでください…」 そんなこと言われても、どうしようもない。 「 …ごめんな…」 口を付いて出たのは、謝罪の言葉。 「何のことですか」 が不思議そうに尋ねる。 「…色んなことだよ」 それ以上は言いようがなく、孫策は黙る。 目の前の娘はそれでも悟るところがあったのか、慎重に言葉を選ぶ様子を見せる。 「以前にも、申し上げた気はしますが」 それは多分、 が初めて宮廷に来た日。 「…伯符さまに謝っていただくようなことは何もありませんわ」 そう言って目の前の娘は微笑んでみせた。こちらを安心させるように。 「それは気丈か?それとも強がりか?」 「…強がりじゃありません」 話すことにも体力を消耗するのか、 はそう言ってから少し休んだ。孫策もしばらくしてから続きを話す。 「なんで俺をかばった。普通逆だろ」 「さぁ…咄嗟だったので…あまり…考えませんでしたわね」 「危ないだろ…こんな、怪我して…どうすんだよ」 「傷は深いとは自分でも思いました。でも…何だか死ぬ気はしなかったんです」 は言葉を切る。妙に晴れ晴れしたものを表情ににじませながら。 「だから思ったんです…大丈夫かなって」 の言葉に孫策は泣き笑いのような表情を浮かべる。 「何だよそれ…」 孫策は、はぁ、と大きな息を吐き出した。 「俺は…もっと色々考えたんだぞ。お前が『大丈夫』って言った意味をさ」 「あら。言葉通りとらえてくださればいいのに」 「だって前はそうじゃなかっただろ」 「それは昔の話ですわ」 自分は何をあれこれ考えていたのか…軽い安堵と脱力を感じながら、「昔の話」という言葉に孫策は苦笑した。 今の の話ではないが、昔の自分はこんな風に思慮をめぐらせることはなかった。そうするようになったのは がそばにいるようになってからだ。 「何言ってんだよ…。すげぇ重傷なんだぞ。何が『死ぬ気がしない』だ、根拠あんのか」 「根拠と言われましても…では逆にお訊きしますが」 はまた少し休んで続ける。 「伯符さまは戦場でもどこでも…危険なところにも一人で乗り込んでいかれるお方ですが、死ぬかもしれないと思いながら向かっていくのですか?」 「まさか。んな訳ねぇだろ」 「そうですよね。私もそう聞いています…だからでしょうか」 孫策は の言いたいことが何となく分かってきた。 「伯符さまのおそばにいるうちに…私までそう思うようになってしまいましたわ」 が笑みを見せた。 「夢うつつですけど…お医者様の声を聞きました。『あとは本人の生きる気力次第』だと。それならまったく心配ないと自分で思いました。今申し上げましたように、死ぬ気はまったくありませんでしたから」 孫策は目を細めた。 「そう思えたのは、伯符さまのお陰ですね…」 絡めた右手に無意識に力がこもる。 「俺の、お陰、か…」 そう言ってくれるのか、お前は。 ここ数日俺が思っていたことは、お前ならとっくに考えていたはずだ。 それでも、お前は…。 突如、 が咳き込んだ。怪我の影響か、癖のあるそれに孫策ははっとして医師を呼ぼうと腰を浮かしかけた。 つないでいた の指が反応するように動く。 咳き込んだまま、表情が語る…「行かないで」。 気付いた孫策は頷く。 当たり前だ。行くわけがない。 孫策は立ち上がったが、それは出ていくためではなく、つないでいないほうの腕を伸ばして水差しを取るためだ。片手で自分の口にあてがうと、水を含んだま に慎重に覆いかぶさる。 の怪我をしている上体に負担をかけぬよう気を配りながら唇を触れ合わせて水を送り込む。嚥下する小さな音が聞こえた。気管が落ち着いたのか、 は静かに呼吸を始める。 「もっと飲むか?」 孫策が問えば、 は小さく首を縦に振った。孫策は体を起こして水差しを口にすると、再び に唇を重ねる。唇を通して渡した水が飲み下されるのが分かったが、顔を上げずにそのまま口付けを交わす。片手で の手を握ったまま、もう片手で彼女の髪を撫でながら。 孫策はやがてゆっくりと顔を上げる。 「後でちゃんと医者に診てもらうからな」 撫でる手は止めないまま。 「ええ、分かってます」 「早く治せよ。傷跡が残ったら毎晩俺がそこに口付けてやるから」 「…努力しますわ」 撫でられる感触に心地よさそうにしながら、 はふと思いついたことを口にする。 「宮廷は大変なのではありませんか」 「ん、ああ。でも、大変のは俺じゃないから…」 周瑜に再三言われ、今回の件は完全に任せることで話はついている。 自分が関わるよりもはるかにきれいな形で事態を収束させてくれるだろう。 だからというわけではないが。 「俺…ここにいるからさ…」 孫策が告げる。 「お前は…何も心配しなくていい。安心して寝てろ」 俺がお前を望むのと同じように、お前が俺を望んでくれるならば。 にとっての自分は。 少しでも、よいものでありたい。 のためにも、俺のためにも。 そんなことを思いながら発言したのが雰囲気でも伝わったのか、 が口元をほころばせたのを見て孫策は赤面する。が、訂正する気はない。 が静かに頷く。それは承諾の証。 「…怖いと思うことも不安に思うこともありませんわ」 様々なことを経て今ここにいるということを、全て含めた意味で は答えた。 「私には、小覇王がついていますもの」
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