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上つ瀬

 

 

《二》

 

 

 二日が過ぎた。

  の状態に変化はない。良いほうにも、悪いほうにも。

 侍従の女子が の体を清めに来るのに合わせて孫策は部屋を出て広間に向かった。

 この日、追捕された犯人が孫策の前に引き出されてきた。

「ああ…そういえば確かにこんな顔してたな」

 広間の中央、縄打たれて引き据えられてきた男は孫策の前に跪くような格好をとっている。

「よくもやってくれたよなぁ…矢を射るならもっとよく狙いやがれぇっ!!」

 心の中で憎悪が火柱のように吹き上げた。渾身の力を込めて孫策は男の左の胸の辺りをこぶしで殴りつける。男がうめき声を上げて衝撃のまま床に叩きつけられる。

「…痛いか?痛いだろ…でも はもっと痛かったんだぞ!!」

 孫策は床にうつぶせにはいつくばった男の胸元に右足のつま先を引っ掛けて思い切り蹴り上げた。

「この野郎がっ!!」

 宙に浮き上がり、再び床へ落ちる男の襟首を孫策は左手でつかんでねじり上げる。

「よくも…!!よくも… をあんな目に遭わせやがって!!」

 襟首をつかんだまま、右手で右手で男の頬を殴る。一発、二発。

「許さねぇ…絶許さねぇ!!」

 続けてもう一発、さらにもう一発と孫策は殴り続ける。男はすでに意識を失い、男の切れた鼻や口から飛び出した血が孫策のこぶしを赤黒くしてゆく。やがて左手で男を高々と持ち上げると思い切りこぶしを男の頬に突き込んだ。強すぎる衝撃は男を体ごと吹き飛ばし、斜めに床へとぶつける。孫策はそれをにらむような視線で見届ける。

 素のこぶしで殴った衝撃は孫策自身の手にも傷を付けたようで、右手のじんじんとした痺れにも似た痛みに孫策は気付いた。そのままその手をわずらわしげに払う。遠心力で飛ばされた血が床に細かな点を作った。

 孫策は周りを見回し、命令の口調で言った。

「…こいつ一人じゃできっこねぇ。必ず仲間がいるはずだ。徹底的に洗い出せ」

 誰が、誰が をこんな目に遭わせた。

「関わった奴は絶対に逃がすな。二度と馬鹿なことを考えられないようにしてやる」

 許さない、絶対に。

「それから…こいつ自身の縁者も締めておけ」

 思い知らせてやる。何をしたのか。

「また仇討ちなんか考えられたら泥沼だ。俺のほうで止めてやる」

 指示を飛ばしながら、孫策は既視感にとらわれる。

 かつてそんな風に、過ごした日々がある。

 江東を平定する過程だった。

 そして今また、恨みを買うのか。

「…それがどうしたってんだ」

 自分の中にわいた疑問を孫策は即座に却下した。

 自分に向けられる敵意を恐れたことなど一度もない。

に傷をつけて…ただで済むと思うな…!!」

 今までも、これからも。

 俺が怖いと思うのは…。

 あいつが…。

  が…。

 俺の前から、いなくなること。

 それだけが。

「伯符」

 別の用事で外していた周瑜が、広間に姿を現した。孫策を見付けるなり真っ直ぐに歩み寄ってくる。周瑜は殴り倒された男が引き立てられていくのを一瞬だけ横目で確認する。

「気を済ませるのは結構だが、それ以上のことは私に任せてもらおうか」

「ああ、公瑾。聞いてたんなら話は早い。暴れてやろうぜ、昔みたいに」

「…君が言ったやり方は賛同できない」

「何だと。俺の言うことが聞けねぇってのか」

「君は気が昂っている」

「うるせぇよ」

「頭を冷やせ、伯符」

「公瑾!!うるせえっつってんだろ!!何度も言わすんじゃねえっ!!」

 広間に孫策の怒鳴り声が響く。

「さっさとやれ!!関わった奴はみんな後悔させてやる!!」

 周瑜は動じない。

「関わるというのは、何をもって関わりとする?」

「決まってんだろ!!こんなことになった原因を作った奴全員だ!!」 

「…では私から処分したらどうだ」

「はぁ?何言ってんだよお前」

 孫策がにらむのを、周瑜は正面から受け止めて答える。

「君が遠乗りに行くのを、知っていて止めなかった」

 周瑜の言葉の効果は大きかった。

 孫策が黙る。表情から血の気が失せていた。

 しばらく思いをめぐらすように視線を彷徨わせた後、やがて大きく息を吐き出して肩を落とす。

「公瑾…俺は…」

 首を左右に振りながら、孫策は言葉を探すが出てこない。

 

 関わった者をすべて罰するというのなら。

 分かっている…自分も含めるべきだと。

 

 ようやく搾り出したのは目の前の親友にしか聞き取れぬ、かすれるような小さな声。

「こんなことになるなんて…思わなかったんだ…」

 周瑜は頷いて気を取り直すように孫策の肩を軽く叩いた。

「君の気持ちは分かる。ここは私に任せろ。君は彼女のそばにいるといい」

 

 そのまま広間を後にした孫策の胸に去来するのは痛烈な悔恨に似た思いだった。

 報復を受けるかもしれないという危険な状況に彼女を連れていったのは自分だ。

 その報復の原因を作ったのも自分だ。

 数年前、確かに自分は江東で暴れまわった。

 好きな女に釣り合う男になりたくて、そしてその女を手に入れようとして、手に入らない苛立ちを紛らわしたくて。そのために敵と呼べる者は、あるときは力ずくで、あるときは真綿で首を絞めるようにしてねじ伏せた。

 結果として彼女は自分のところへ来た。

 そして自分がその間にやってきたことの報いを…今になってこんな形で彼女が受けた。

 …俺の、代わりに。

 

 自分が、巻き込んだのだ。

 初めから。

 そう、本当に初めから。

 孫策は黙ってわずかに眉を寄せた。

  はそもそも…ここに来ることを強く望んでいたわけではない。

 それを確認したとき…思い出せばわずかに痛みを伴うやり取りが頭をよぎったから。

 

「お前さ…俺のこと、待ってなかっただろ」

 まだ陸家が頑として抵抗を続けていたときのこと…自分と がまったく連絡を取れなかった時期のことを指した話だった。

「え、ええ…?そう、ですわ、ねぇ…」

 お茶を淹れる手を止めて は言いよどむ。それは答えそのものに迷っているのではなく、単にこちらを気遣う言葉を探しているのだ。

「いいんだぜ、はっきり言って。別に怒らねぇよ」

 促せば、 は軽く肩をすくめてみせた。「では」と前置きしてから話し出す。

「…待っていませんでしたわ。望みの薄いことにわざわざ期待をかけて落胆するようなことはしたくありませんでしたから」

「…だろうな」

 当然のことと言えた。 がいたのは陸家。成り上がりである自分は初めから目の敵にされていた。

 そんな男とどうこうなるなんて考えるだけでも咎められる対象となっただろう。

 それでも意志を表明できるほど、 の立場も強くなかったことも知っている。

 

 だから俺たちは…そこで終わるはずだった。

 そこで俺さえ何もしなければ。

 多分…陸家の若い当主が成長して…数年後には家をまとめて彼女を迎えただろう。

 

 孫策は、待つことを苦にしない彼の武将の顔を思い出す。

 数日前、宮廷で会ったとき…荒れる自分とは違って冷静な表情を見せていた。

 だが表には出さぬだけで に対して並ならぬ情を抱いていることは知っている。

 陸遜と の間で本当に何か話があったのかどうかは分からない。

 ただ言えるのは、 がその気になるまでは陸遜はいつまでも待っていただろうということだ。

 

 けど俺は違う、と孫策は思う。

 俺はせっかちだから。会えない日々に耐えられなくて。

 毎日のように湧き上がる感情を抑え切れなくて。

  が欲しくて、どうしても欲しくて。

 だが状況がそれを許さぬというのなら。

 俺の選択肢は二つ。

  を諦めるか。あるいは状況そのものを変えるか。

 俺が選んだのは後者で。俺はそれだけの力を…持った。

 そして当時の俺は を手に入れることに躍起になっていて、言ってみれば俺自身のことで精一杯で。

  自身がどうしたいか、なんて深く考えたことはなかった。

 後で分かったことだが、俺と付き合ってたことが の立場を一層悪くしていたらしい。

 それも知らずに俺は根拠もなく思っていた…二人の気持ちは同じだと。

 

  が思ったより心を開いていなかったことが分かったのは。

  が俺のところへ来てからだった。

 

 当時、自分がそれを知っていたら、どうしていただろうか。

 孫策はふと思う。

 疑問の答えはすぐに出る。

 …やはり何も変わらないだろう。

 それでも自分は彼女を欲し、手に入れるためには何だってやったはずだ。

 そしてやはり周りの者が止めるのを聞かずに。

 彼女を連れて遠乗りに出かけ、巻き込むに違いない。

 

「ごめんな、 …」 

 こんな仮定は無意味だけれど。

「全部、俺のせいだよな…」

 もしももう一度初めからやり直すとしたら。

 俺はどこからやり直せばいいのだろう。

 

  、分かってくれるか。

 俺は、お前をこんな目に遭わせるために呉都へ呼んだんじゃない。

 お前にはもう傷ついてほしくないし、辛い思いも、痛い思いもさせたくない。

 そんなことばかり考えていたんだ。

 お前にそばにいてほしいと願ったのは。

 決して、こんな。

 俺のやったことの償いを、お前自身にさせるためじゃない。

 

 


 

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