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上つ瀬

 

 

《一》

 

 

「どきやがれ!」

 たまたま廊下に居合わせた兵士数人を孫策は跳ね飛ばした。

 そのまま止まることなく大股でずかずかと歩く。騒然とした宮廷内に、異常に強い足音が響く。

「伯符さま、どちらへ」

「決まってんだろ! をこんな目に遭わせた奴を八つ裂きにしてやる!」

 現れた陸遜の姿に、孫策はやはり立ち止まらずに横をすり抜けようとした。陸遜はそんな孫策に落ち着いた声をかける。

「お好きに。ですが がうわ言であなたの名前を呼んだらどうすればよいですか」

 孫策が立ち止まった。こぶしを握り締めたまま眉根を寄せ、やがて。

「くそっ!!」

 大声で吐き捨てると、背中に回した棍の一本を右手で掴むと力任せに床に叩きつけた。

 棍は孫策の手を離れ、鈍い音を立てて床から跳ね返る。

「診察はじきに終わります。もう少しお待ちください」

 陸遜は身を屈めてその棍を拾った。

「傷の具合は」

 苛立った口調で孫策は尋ねる。

「…深いですね」

「だろうな」

 孫策はため息をついた。自分も彼女の傷を見た。重傷だった…正直なところ、即死でないのが不思議なくらいに。

 陸遜が棍を孫策の前に静かに差し出した。孫策は陸遜のそんな様子に対し、苦い表情のままで受け取る。

「何でお前はそんな冷静なんだよ…よく普通に待ってられるな」

「僕は理性においてはあなたを上回る自信がありますから」

「…つまんねぇこと言いやがって。俺は待つのは大嫌いだ」

「…でしょうね。ですが今は」

 二人のやり取りはそこで誰何の声によって中断された。

 官吏の一人が医師が診察の終了を知らせにきたのだ。

 

 医師の診断は孫策の見立てとさほど変わらなかった。

 傷の手当ては行ったが出血が非常に多く、意識は倒れたときから戻らない。

「できることはすべていたしました。あとは本人の生きる気力次第でしょう」

 ここ数日が峠です、という医師の言葉に孫策は頷いた。すでに日は落ち夜の帳が下りている。

 説明を受けながら、孫策は何度も寝台に横たわる に目をやった。

 掛け物が腰から下にだけかけられている。それだけ見れば顔色が悪いだけで普通に眠っているようだ。

 一通りの話を聞いて医師を下がらせると、孫策は寝台のすぐそばに歩み寄った。

…」

 返事はない。孫策は寝台に振動を与えないように慎重に腰掛けると、体をひねって を見下ろした。

 傷を受けた胸に手当てを施され横たわる娘は、目を閉じたままだ。

 その呼吸を聞き取ろうと耳を澄ませば、庁舎のほうのざわざわとした気配のほうが先に耳に入ってきた。

 犯人の追捕のために今も動いているのだ。指揮は周瑜が取っている。

 今回の件は孫策を狙った凶行であることは調べがついている。犯人はかつて孫策が江東を平定する際に処断した人間の縁者であると見られている。その報告に孫策は驚かなかった。思い当たる節は山ほどあるからだ。

 あのとき犯人は失敗を悟ったと同時に逃走した。孫策もあえて深追いしなかった。本当ならばその場で犯人を地獄へ送りたいところだったが、 の安全と手当てを優先して宮廷へ戻ったのだ。

 孫策は唇をかむ。

 自分に対して強い恨みを抱いている者が一人や二人でないことは分かっていた。その中で行動に出るものがいるであろう可能性があることも。

 だが、 と二人きりで遠乗りに出たのは初めてではなく、実際、今まで何事もなかった。だから今度も大丈夫という過信があった。

 それに自分なら…何があっても を守りきることができるという自信もあった…そしてこのザマだ。

 俺のせいだ。

 孫策は腕を伸ばして の前髪を分けてやる。

 さらさらとした感触は、間違いなく彼女ものだ。

 孫策は意識してさらに耳を済ませる。 の呼吸は他の音を全て除外し自分の息も止めてようやく聞き取れる。かすかな、かすかな息の音。

 その静か過ぎる様は孫策を不安にさせる。

 今にも、この瞬間にも止まるのではないか、と考えるのも恐ろしい想像が頭をよぎる。

 「 …」 

 孫策はもう一度名を呼ぶ。

 そのとき庁舎のほうから何人かのまとまった足音が響いた。

 孫策は目の前の娘の前髪を分ける手を止めた。

 何か知らせでも入ったのか。

 孫策は目線だけをそこに向ける。足音はやがて遠くなった。

 何かあれば、公瑾が知らせてくれるだろう。

 孫策はそう思って再び目線を に戻した。

 庁舎での活動に関わらないのは、陸遜とはまた別の理由で周瑜にも止められたからだ。

 「追捕は我々が手を尽くすから、君は関わるな」

 はやる孫策を抑えるように、周瑜は言葉をつなぐ。

 今の君に冷静な指揮を取れるとは思えない。

 君は一つのものに気を取られすぎて、周りが見えなくなるところがあるからな…。

 脳裏によぎる親友の言葉に、孫策は反論する術を持たない。

 孫策はこんなときだが苦笑したくなるような感情をおぼえた。

 目の前の娘の顔を見ながら軽く息をつく。

 遊ぶことでも武芸でも戦でも、もともと熱中しやすいタチであることは自覚している。

 なぜそんな夢中になるのかと訊かれても、理由などなかった。

 単にそうしたいからいう気持ちだけで十分だった。

 …でも は違う。

 孫策は自分の指を の額から頬へと動かして輪郭線をなぞる。

 …たまらなく好きになったのは「何となく」じゃない。

 自分が を好きな理由はいくつもある。

 初めて会ったときから今まで、理由は増える一方で。 

 十でも百でも、一晩中でも挙げ続ける自信がある。

 こんな風に黙って眠っていても可愛くて。

 いつもよりも血の気を失った頬は不思議なくらいすべらかで。

 指はいつも通りに見えるけれど…。

 孫策は の頬から手を引いて、掛け物から出ている の手の甲に自分の手のひらを重ねた。触れた彼女の指先が冷たいのが分かる。そのひんやりとした感覚は自分ののぼせた頭を冷ましてくれるだろう。

 でも。

 孫策は手を重ねたままわずかに眉を寄せた。

 黙っていても可愛いのは分かってる…でも俺はしゃべってるお前も好きなんだ。

 白い頬がすべすべしているのも知ってる…でもその頬に赤みが刺すのを見るのもいいんだぞ。

 冷たい指は…。 

 もちろんお前の指なんだから愛しいに決まってる。

 でも触ったときに、握り返してくれるんならもっといいだろ。 

 孫策は反応のない の四本の指をまとめて自分の手のひらで包み込む。

 

 今、自分が触れているのは間違いなく誰よりも愛しい女だ。

 何があっても絶対に離したくないと思っている女だ。

…」

 そんな女は一人しかいない。

  が最初で、 が最後だ。

 好きで好きで仕方がない。 

 ずっとそばにいてほしいと願い続けてきた。

 なのに。

 孫策は微動だにしない の顔を見る。

「…ったく、何が『大丈夫』だ…」

 記憶の中の最後の の言葉を孫策は思い出す。

「だったら、とっとと起きてみろよ。強がりばっかり言いやがって…」

 だがそこで孫策は、それがあることを前提とする、まったく別の意味を持った言葉である可能性に思い当たる。

 その前提は自分には聞こえなかっただけで。

 本当は はこう言ったのではないか。

 

 『私がいなくても』

 大丈夫ですよ、伯符さま。

 

「馬鹿野郎…何言ってんだよお前…」

 頭の中で補完された言葉に孫策は応える。

「そんなことより死にたくないとか助けてとか言ったらどうなんだ…」

 吐き捨てるようにつぶやいてから苛々と首を振る。

「そもそもお前…本当に俺が大丈夫だなんて…思うか…?」

 最後のほうは声がかすれてほとんど言葉にならなかったが、孫策はそんな自分を無視することにした。

 どうせ誰も聞いていないし、見てもない。 

 自棄のように思えば、ここに本当はもう一人いるゆえに突きつけられた孤独感が増してくる。

 こみ上げてくる感情を抑えるように、 の指を強く握り締め、手をつないだままその手を自分の額に押し当てる。

…」

 孫策は の名を呼び続ける。

 室に響くのは孫策の声のみ。

 返事は、ない。

  

  


 

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