孫策 

 

 

 よぉっ!よく来たな!ここは俺が自分について語る部屋だ。いつ俺がどこで何をしたかを、いい機会だからちょっとまとめてみるかっていうのがここの趣旨だ。と言ってもこっちは専門家じゃねぇし真面目にやろうって気もねぇ。だからあまり本気にしないでくれよ。気になると思ったら自分で調べるのが一番だぜ。

 それでもいいかぁ?じゃちょっと長くなるけど聞いてくれよな。

 

 《まずは軽く自己紹介》

 おっし!じゃ、改めて。俺は姓は孫、名は策、字は伯符。おくりなは長沙桓王だ。

 生まれは呉郡の富春(ふしゅん)…長江の河口よりやや南に行ったところで、現代で言うと浙江(せっこう)省の富陽(ふよう)市だと伝えられている。水辺に緑の丘陵が広がるいいところだ。

 おふくろは俺を身ごもったとき、月が懐に入る夢を見たんだそうだ。ちなみに権のときは太陽。そうか、俺って属性は月なのか…。でもおれのばあさんが親父を身ごもったときは自分のはらわたが外に飛び出して城の門に巻きつく夢を見たんだそうだ。まぁ所詮夢だもんな。いい加減なもんだぜ。

 自分で言うのもなんだけど、俺は明るくてかなり格好いい男だった。そしてどんなヤツの話でもどんどん聞いて、おもしれぇと思ったら即採用。皆もそれでやる気を起こしてくれたみたいで仲良くやってたんだぜ。

 

 《生きた年代と事柄》

 俺の軌跡を簡単にまとめると以下の表のようになる。年号は西暦で、次の数字は俺の年齢だ。年齢は全部数えで書くぞ。俺の生まれた175年で1歳(0歳じゃねぇからな)、死んだ200年で26歳だ。

 

175年(1歳)

 親父こと孫堅の長子として俺が生まれる。

182年(8歳)

 弟の権が生まれる。弟は他にもいるけどここでは割愛するぜ。

184年(10歳)

 いわゆる黄巾の乱が起こった年だ。親父が黄巾賊討伐のための兵を挙げたとき、俺はおふくろと廬江(ろこう)郡の舒(じょ)県に引っ越した。ここで知り合ったのが公瑾だ。引越しのバタバタで俺ん家仮住まいだったんだけど色々と気を遣ってくれた公瑾に結局屋敷を一個もらっちまった。

192年(18歳)

 袁術の命令で親父が劉表を討ちにいって、それで黄祖の部下の放った矢に当たって親父は死んだ。193年って説もあってこっちだと頭に石が当たって死ぬ。何にしてもよく当たるな。
 192年は長安で董卓が呂布に殺されている。
 193年は曹操が徐州牧の陶謙を破って大虐殺を行った年。関係ないけど陶謙は俺のことが嫌いだったらしい。

194年(20歳)

 親父の埋葬とか済ませた後、袁術の支配下に入る。仕方なかったんだけど、まったくいいようにこき使われて今思い出しても頭にくるぜ。袁術の命令で俺が廬江を攻めたのもこの頃だ。
 同じ年、劉備が陶謙の後を継いで徐州牧になる。それを呂布に奪われるのが196年。
195年(21歳)  牛渚を攻略して独立の基礎固め。流れ矢で負傷した俺は得意技「死んだふり」をして勝利を収めた。ちなみに俺の得意技は他に「泣き落とし」がある。袁術から兵を返してもらうのと、張紘を口説くのに使った。
 反対勢力を片っ端からやっつけて一族皆殺しにしてたのはこの頃からかな。
 翌年の196年に曹操は献帝を迎える。

197年(23歳)

 袁術が帝号を僭称する。それで俺は袁術に絶縁状を送りつけてやった。それがきっかけで曹操が俺のことを上奏して俺は討逆将軍っていう肩書きをもらった。討逆だってよ。格好いいだろ。
 でも結局曹操は自分で袁術を打ち負かした。俺の出る幕はなかったか。

198年(24歳)

 公瑾に皖(かん)を攻めてもらったのはこの頃。喬公の二人の娘を手に入れる。
 曹操が徐州を攻略して呂布を殺したのはこの年。
199年(25歳)  廬江太守劉勲をやっつける。

200年(26歳)

 死んじまうんだよなぁ。ちょうど官渡で曹操が袁紹の相手をしてるときで、その隙を突いて許を狙おうと思ってたんだけど、惜しいよなぁ。

 

 《廬江攻めについて》 

 194年で言及した廬江攻めについて補足しとくか。

 袁術が出兵する際に、廬江太守の陸康に兵糧を出せと命じたんだ。ところが陸康がこれを突っぱねた。それでカンカンになった袁術が俺に廬江を落としたらそのままくれてやるから攻めろって言ったんだ。

 結局その約束は反故にされて劉勲が廬江太守になるんだけど、そもそもなんで俺に言ったかっつーとだな…。実は前に俺が陸康を訪ねたことがあって、そんとき陸康は俺のことを無視しやがって部下に対応させたんだ。後の于吉との絡みでもそうなんだけど、俺は自分を軽んじられるのが大嫌いなんだよ。それで俺がおもしろくねぇと思ってたのを袁術が知ってたんだな。それで俺は陸康を攻撃して一族の大半をやってやった。ウチの親父は陸康のおいを助けたこともあったんだけど、俺の代でチャラだ。

 あと…今さらかもしれねぇけど、この陸康ってのが伯言のじいさんの兄弟で、早くに親を亡くした伯言の養父にあたる。戦が近いことを見越した陸康は伯言と親戚縁者を故郷に帰らせている。このときに一族を取りまとめたのがその伯言だ。…12歳だぞ。マジかよ。

 廬江攻めについては「袁術くん、Hi!」というタイトルで詳しく書いてくれているサイトがあるから興味があれば見てみるのもいいかもな。ここだ→「偽黒武堂の三国志探訪」 

 

 《死因について/許貢の食客》

 さて、江東を平定した俺が死んだのは200年、数えで享年26歳だ。死因についてちょっと話しとくか。

 この200年って年は曹操が袁紹と官渡で対陣している。俺はその隙を突いて曹操の本拠地である許を狙うことを考えていた。ところが俺のことを「ほっといたら何をするか分からない危ないヤツ」だと朝廷に告げ口したのがいて、それが俺の耳に入ったもんだから、俺はそいつ、許貢を殺した。そしたらその許貢の食客が主人の仇を討とうと機会をうかがってたんだな。俺の趣味は狩りに出ることで、その日も護衛を置いてけぼりにして一人で馬を飛ばしてたらあっさりやられちまった。

 「俺は攻めるのが得意だけど、守りはお前のほうが上だ」と権に言い残してその日のうちに俺は死んだ。たまたま近くにいなかった公瑾は俺の死に立ち会えなかった。

 まぁこの辺は異説もあって、俺の傷は百日安静にしていれば治るものだったけど、鏡で傷を見た俺が自分の情けない姿にむかっ腹を立てたところ傷口が裂けて死んだってのもある。

 ただ、陳寿が俺の死について書いているのはこの「許貢の食客の手にかかる」って部分だけだ。これとは別に注をつけた裴松之が書いているのが于吉との絡みだ。

 

 《死因について/于吉》

 結構有名な道士だったらしい于吉を俺が斬ったくだりは二種類ある。

 まず一つ目。俺が城で宴を開いているときに、たまたま于吉が通りかかった。そしたら宴に出ていた連中がそれに気付いてどんどん于吉のほうに行っちまうんだよ。おい、俺の宴の途中だっつーの!むかついた俺はその場で于吉を捕まえた。そしたらおふくろやら将兵やらが嘆願書まで作って于吉の命乞いに来やがんの。俺は言った。

「こいつはもう鬼籍に入れてんだよ!そんなもん作って紙や筆を無駄にすんじゃねぇ!」

 気が早い上に何だかケチな俺は于吉をその場で即刻処刑したってわけだ。

 それから二つ目。俺が許を狙って船で長江を渡っていたとき、どういう経緯か分からねぇけどその船に于吉が乗っていた。俺が早起きして朝からガンガン仕事してんのに于吉は座り込んで、しかも周りで俺の部下達がへいこらしてやがる。ふざけんなっつーの!俺は叫んだ。

「于吉ってそんなに偉いのかよ!こっちは日照りで水が干上がって船が進まなくて苦労してんだぞ!手が空いてんなら雨乞いでもしやがれ!降らなかったら死刑だからな!」

 …それで降ったんだよな、雨。でも俺は結局于吉を殺した。

 で、俺がどうなったかっていうと。俺が一人でいるといつもぼんやりと于吉の姿が現れるようになったんだな。しかも鏡を見ても于吉が出るんだよ。振り返っても誰もいねぇのに。俺はそれですっかり参っちまって鏡を割って大声をあげたところ、先の食客にやられてからせっかく治った傷がまた開いて死ぬことになった。こんな感じだ。

 ちなみに俺の死んだ日は4月4日って記述もあるんだけど…俺が知らないはずのことをしゃべってたりする記述もあるから信憑性については疑問だ。

 

 《年齢差について》

 俺が26歳で倒れて、19歳の権が後を継いだ。じゃあ他のヤツはいくつだったかというと。年が上のヤツからまとめるとこうだ。名前の次の数字は生まれた年だ。 

子義(166年)  9歳上だから35歳。
公瑾(175年) 

 同い年だから26歳だ。この後の俺のいない10年間、本当に頑張ってくれたよな。

子明(178年)   3歳下だから23歳。子明が15歳か16歳かそこらのときに俺がこいつを気に入ってそばに置いている。結構長い付き合いだな。

権(182年)    

 7歳下だから19歳。苦労かけるな。
 伯言(183年)   8歳下だから18歳。伯言が出仕するのは俺が死んでから3年後だ。
公績(189年)  14歳下だから12歳か。若いなぁ。こいつの親父は俺の代からの付き合いだ。

 

 公覆、幼平、興覇は生年不明だから分からねぇ。公覆は親父の代からいて、幼平は俺の代に仲間になっている。興覇が来たのは権の代になってから。だから俺と興覇に面識があったかどうかは微妙だな。

 ちなみにこのとき曹操(155年生まれ)は46歳、曹丕(187年生まれ)は14歳、諸葛亮(181年生まれ)は20歳だ。

 

 《終わりに》

 おっと、最後に俺の妻についてちょっと触れとくか。お馴染みの大喬は正史では俺の巻じゃなくて公瑾の巻に出てくる。俺の命令で軍を進めた公瑾が喬公(手元の資料じゃ「橋」の字になってんだけどここでは「喬」にしとくぞ)の二人の娘を手に入れて、俺が姉を、公瑾が妹を妻とした、という記述になっている。そして俺はこんなことを言ってたらしい。

「喬公の二人の娘は故郷を失ったけどよ、俺たちをダンナにできたんだからよかったじゃねぇか!」

 …俺、絶対グーでパンチされるよな。

 ちなみに「孫策の女性関係について」というタイトルでおもしろいことを書いてあるサイトがあるから、もし興味あったら行ってみるのもいいと思うぜ。俺自身についての記述もかなり詳しいぞ…っていうかむしろそっちを見てくれって感じだ。ここだ→「呉書見聞」

 

 陳寿は俺についてこう書いている。俺の心意気と行動力はまさに英雄。でもせっかちな上にその場のノリで行動するから痛い目に遭うんだと。まぁ、その通りだよな。

 

 …っと、このくらいにしとくか。ここまで読んでくれてありがとうな。

 よかったらまた顔見せてくれよ。じゃあなっ!

 

  


 

これは管理人の主観です!!主観ですからねーー!!管理人は三国志については素人です。所詮キャラ萌えしてるだけです。バイブルは『かぜ江』と『天の華・地の風』だし。

無双4に年代が結構出てきたので、頭の中を整理するつもりで軽くまとめてみました。でも江東平定のあたりは年代の確認ができなかったので書きようがありませんでした。年齢差については心配だったので一応エクセルで一覧表を作ってチェックしました(汗)。

ちなみにウチのメインヒロインである陸家の娘は陸遜の父陸駿の兄弟の娘ということになっています…ってどうでもいいか。

 

参考 『正史 三国志英傑伝』 1 魏書(上)   陳寿(著) 裴松之(注) 『中国の思想』刊行委員会(編訳) 徳間書店

    『正史 三国志英傑伝』 4 呉書   陳寿(著) 裴松之(注) 『中国の思想』刊行委員会(編訳) 徳間書店

    『三国志全人名事典』 正史三国志英傑伝別巻    『中国の思想』刊行委員会(編著) 徳間書店

    『三国志 群雄データファイル』   「歴史読本」編集部 知的生き方文庫 三笠書房

    『図解雑学三国志』   渡邉義浩 株式会社ナツメ社

    「週刊ビジュアル三国志」 7   世界文化社

 

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