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みちるもの(番外)

 

 

。こっちです…」

 陸遜はそう言って を促した。

 牢獄である。

 宮廷より少し離れた詰め所に併設されているそれは、宮廷へ罪人を護送する際の中継点として使用されることが多い。その建物の性質上、積極的に明かりを取り入れた作りではないので昼間でも薄暗い。

「ここ…段になってますから、気を付けて…」

  の少し先を歩いている陸遜は、足を緩めて振り向いた。 は頷き、慎重に足を下ろす。

「その先です…」

 陸遜が片手で示すような仕草をした。そこには、一つの扉があった。中は、扉の中央よりやや上をくりぬいた小窓から見ることができる。

  は少しだけためらった後、そこをのぞいた。

 そうしてしばらくした後、 は小窓から離れた。

 先の事件に実家である陸家が関わっている節のあることを、陸遜は言っていた。

 心の準備はしていた。が、こうして見せられると、こみ上げてくる怒りにも似た不快感はどうしようもない。

 

「伯言…?」

 中から声がした。

「ええ、そうです」

 陸遜が小窓の正面に立った。

「こんな真似をして、ただで済むと思ってるのか!」

 声が大きくなる。陸遜は静かに「それはこちらの台詞ですよ」と返す。

「まったく、出仕してから僕の涙ぐましい努力で築いた陸家に対する信頼を、簡単に壊さないでいただきたいですね」

 落ち着いた声で、陸遜は続けた。

「伯符さまは絶対にお許しにはならないでしょう。こうして犯人を突き出したところで収める自信が僕にはない」

 陸遜はちらりと を見て、手をわずかにかばうように動かした。下がっていろということらしい。 はそれに従って、数歩だけ後ずさった。

「この、裏切り者…!」

 別の声がした。そう、中には複数いるのだ。

「それは僕のことですか」

 陸遜は淡々と答える。

「先代だって孫策にやられたんだぞ!お前は先代に育てられた恩も忘れて…!」

 陸遜は声をさえぎる。

「仇である孫家に膝を折っているのが気に入りませんか。出仕の際にお話したとき、長い目で見てこれが一番いい方法だと納得いただけたと思っていたのですが」

 仇、という言葉が の胸に響いた。そう、今の陸家にとって孫家は憎い仇以外何者でもないのだ。そしてその仇の筆頭が孫策だ。孫策自身ですら、それを承知している。

 陸遜は、片手の指で前髪を払うような仕草をした。

「僕は伯符さまに、こんなことを言われましたよ。『前の当主は確か80歳近かったよな。んでその後を継いだのがまだ10代のお前。すげぇ家だな』って。ひどいことおっしゃいますよね。半分は伯符さまのせいなのに」

 陸遜は一度言葉を切る。

「…でも、もう半分は、その前に跡目争いを繰り返したあなたがたのせいだ」

  が目を伏せるのを、陸遜は見た。 はそれで両親を失うことになったのだ。

 

 今回の誘拐劇は、 が孫策に遠ざけられたことで始まった。 が孫策に何かそそうをしたらしいと判断した陸家が、実家である自分達が何らかの形でとばっちりを受けるのを恐れて行った。 がそのままいなくなれば、親族を失った被害者の顔もできる、卑怯なやり方で。

 そう、陸家は に対して過敏になっている。

  の一挙一動にびくびくしている。

 なぜか、と問うまでもない。

 陸遜は思う。

 彼らは恐れていたのだ。

  にした仕打ちが、自分達に返ってくるのを。

 孫策のそばへ行った が一言、孫策に言うことを。

 「陸家を、滅ぼせ」と。

 それだけの力が、今の孫策にはある。

 

 陸遜は に向き直った。

「伯符さまにはまだ報告していませんが…彼らの処遇は決めています。助ける気はありません」

 陸遜は鞘に収めてある双刀の一本に手をかけた。親指で柄が押し上げられ、みがかれた刃が顔を出す。

  ははっとした。

 同時に、長い間押し込められていたものが胸の中に噴き出してくるのを感じた。

 そこにいるのは、自分の両親を追い込んだ者たちだ。

 誰にも言ったことはないが、夢の中で何度刃を振るったか分からない…その憎い相手がすぐそばにいる。

 どくん、と の心臓が脈打った。

 

 だったら。

 私が。

 この手で…!

 

 すらり、と刃が鞘を抜ける独特の音がした。陸遜がその剣を完全に抜いたのだ。

 陸遜が自分を連れてきたのは、このためだと は思った。

「伯言…さま…」

 呼びかける声に、陸遜は刃を下に向けたまま を見た。

 髪と同じ、薄い色の瞳が の視界に入る。

 けしかけるでもない、とがめるでもない。ただ静かな瞳。

  はしばらくそれを見つめたまま、黙っていた。

 唇をかみ、こぶしを白くなるまで握り締め、そうして はようやく口を開いた。

「…伯言さまのご判断に、すべてお任せします。どうか、よいようにしてください」

 そのとき、一瞬だけ陸遜の瞳が揺らいだように見えたのは、 の気のせいだろうか。

 陸遜は一呼吸おいた後、ふっと目を落とした。

「…分かりました。あなたがそれでいいと言うなら」

 そう言って陸遜は頷いた。

 

  が考えたのは、孫策のことだった。

 自分がもし刃を振るえば、それは私怨による、復讐になる。

 もし自分がそうすれば、同じように誰かが孫策に復讐するのを肯定することになる…そう思うと、できなかった。

 陸家の者をかばう気はないが、孫策が相当な恨みを買っているのは事実だ。

 自分がここで手を止めても、今後起こり得るその可能性に対して、何の影響もしないことも分かっている。

 それでも、できなかった。

 ましてや。

 その相手に、私情をはさまずに膝を折る彼の…陸遜の前では…。

 

 先日の の誘拐事件において江東の名家である陸家の関与が発覚したことで、宮廷は騒然となっていた。

 陸家が の実家であることに加え、下手人を捕らえ告発したのが当主の陸遜であることがそれに拍車をかけた。

 陸家に叛意があるのではないか、本当の狙いは孫策だったのではないか、実は見殺しにするつもりだったのではないか…陸家の意志は陸遜のそれと混同され、様々な憶測を呼び込んで陸遜個人に向けられた。

 が、陸遜に対するそういった嫌疑を、孫策は「伯言はそんなヤツじゃねぇ」という一言で払拭した。

 誘拐に関わった者の処断はすでに済んでいる。残るは身内からそういった者を出した陸遜自身の責任であった。

「処罰については…」

 広間に、孫策の声が響く。正面奥に孫策が座り、陸遜はその前に頭を垂れてかしずいている。その周りには武将や文官が集まっている。

「一番に駆けつけてくれた先の功績と相殺にする。以上だ」

 孫策の言葉に、陸遜を友と呼ぶ武将達から軽いどよめきと、ほっとした空気が流れた。

 孫策は立ち上がり、退出するために歩き出した。まだ膝をついたままの陸遜のすぐ横を通り抜ける。

 陸遜はすれ違いざまに孫策の声を聞いた。

「次はないと思えよ」

 陸遜が反応するより早く、孫策は背中を見せて歩き去っていた。友人達が駆け寄ってくるのを視界の端に止めながら、陸遜は孫策の背中を見つめた。

 分かっています。

 陸遜は友人達に笑顔を見せながら、心の中で別の声を発していた。

 あなたに言われるまでもない。

 陸遜は首を動かした拍子に、遠くから自分を見つめている人物の存在を感じた。

  だった。

 安心したような表情から、こちらのことを心配してくれていたのが分かる。

 少し距離のある に声をかける代わりに、陸遜は軽く目を細めてみせた。 が口元に手をあてて微笑んだ。

  の姿から、陸遜は牢屋でのことを思い出す。

 自分は、復讐の機会を に与えた。 には、そうするだけの理由があると考えたからだ。

 が、 は結局、そうしなかった。

  の瞳の中に色々な考えがよぎり、最後に自分が映ったのが分かった。

 気遣ってくれたのだ。

 それで十分だ、と陸遜は感じた。

 それだけで、自分はこれからも耐えていける。

 

  は軽く礼をして、広間を出ていった。

 陸遜はそれを見て…見なくても分かった。

 孫策のところへ行くのだろう。

 それでいい、と陸遜は思った。

 自分にできるのは、 の望む環境を守ることだから。

 

 


 

 「みちるもの」本編について、無双を知らないヒロコさんから「陸遜が〜v」というメールをもらったので、やる気を出してもうちょっと書いてみました。陸遜ドリームですね…これ。孫策ドリームのコンテンツに普通に置いといてすいません…。

 

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