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待ち来

 

 

 ぴくり、と動いた自分の体の振動で は目を覚ました。

 顔を上げると、卓に突っ伏したまま枕にしていた両腕がしびれているのを感じた。

 いつの間にか寝入ってしまったらしい。 は両目で瞬きすると左手でその辺りを押さえた。

 しばらくそうしていると、ぼんやりしていた視界が戻ってきた。別に見なくても分かるが…自分の房だからだ。

 どのくらい眠っていたのだろう…。

 意識を失う前につけたはずの灯りが消えそうになっているのを見ながら は思った。灯りの具合からして、おそらく今は夜中だろうか。耳をすませば聞こえてくるのはきぃ、という鳥の声、かたかたと格子を鳴らす風の音。人的なものはほとんどないように思える。

  はもう一度きゅっと両目を閉じて、落ちかかる前髪を左手でかきあげた。

 額から髪の奥へと指をもぐらせ、少し乱れるのも気にせずに左の耳の後ろを強引に分け、うなじを一度撫でるようにして首の前へと戻ってこさせる。その人がいつもしてくれるように。

 伯符さま…。

  は目線を落とし、その人の名をつぶやいた。

 孫策は今、呉都にはいない。公用による外出のため予定では明後日、早ければ明日戻ってくるはずだった。

「ちょっと長くなりそうなんだ。なんせ動き始めたばっかだから、連携がなかなか取れないみたいでよ…」

 出発前に孫策は言った。

「いい機会だから一回ざっと見て回ってくるつもりだ。とにかく流れさえつかめれば後は大丈夫だと思うんだけどなぁ…」

 孫家の支配下に置かれた江東の地はいくつかの郡に分かれている。そして先日孫策の手によって再編成が行われた。太守やその下の組織体制が変わったことにより、多少の混乱が起きているらしい…そう孫策は話した。

 人に任せるよりも俺が行って直接まとめたほうが早いだろ…その人の言葉を は思い出す。

「なるべく早く帰ってくるから…いい子にしてろよ」

 そう言って髪を撫でてくれた手と別れて数週間が経つ。

 数日して は気付いた。孫策のいない時間に慣れることのできない自分に。

 孫策と一緒にいる時間は今まで自分が過ごしてきた時間に比べるとおそろしく短い。自分は孫策のいない時間のほうが当たり前だった。それなのに今はそうでないのが、孫策のいないのがつらく感じる。

 孫策の仕事振りを聞き、遠地での様子を聞き、かの人の息吹を少しでも感じたくて主のいない執務室にも用事を作っては何度も足を運んだ。戻ってくる予定日を指折り数え、早まったと伝えられては喜び、遅れると伝えられては気を落とした。そして数日前に呉都に戻るため孫策がその地を発ったとの知らせが入った。呉都までの行程は通常で四日。早くて三日…明日はその三日目にあたる。

 自分が起きていようと眠ろうと明日は同じように来るのは分かっている。それでも明日のいつなのか…明後日かもしれないけど明日かもしれない…その瞬間に少しでも早く立ち会いたくてこうして起きているつもりで…そして寝入ってしまったのだ。

  はそんな自分に苦笑し、諦めにも似た思いを感じながらため息をついた。

 寝直そうか…そう思った矢先。

 ふいに起こったがやがやという人の気配に は気付いた。

 

「伯符!どういうことだ!また無茶なことを…!危険だから夜中には進めるなと言っただろ!なぜもう一日待たなかった!」

「いやぁ、悪ぃ悪ぃ!急げば日没までには着けると思ったんだけどよ、まさか馬車の車輪が四つも外れるとは思わなくてさ、修理にえらい時間がかかっちまって…」

「そういう不測の事態も想定して予定を立てろと言っているだろうが!まったく君はいつも…!」

「まぁまぁ公瑾、無事に着いたんだからよかったじゃねぇか」

「伯符!ちょっとは反省しろ!」

 宮廷は先ほどの静寂とはうってかわってにぎやかになっていた。

 到着した何人もの役人と、到着を聞いて迎えに来たその家族が広間に集っていた。同じように広間の扉をくぐった は彼らの間をすり抜けるようにして夢中で足を進めた。心と同じく急く足に、まとわりつく裾を軽く右手で持ち上げ、にわかに活気づいた広間の中に次々と照らされる灯りを頼りに首をめぐらし、視界に入る一人一人を目で追いかける。

 広間の中心にあたるところに、その人はいた。

 親友である人に怒られながら頭をかいて苦笑している。顔に疲れは一切感じられない…いつもの笑顔。

「伯符さま!」

 思わず は口に出してその人の名を呼んだ。孫策が気付いて首をこちらに向けるのが見えた。「おっ」というように眉が上がった。

!」

 その声を聞くと同時に は駆け出していた。同じように足を踏み出そうとしていた孫策は、 の動作に気付くと逆に足を止め、代わりに両腕を広げた。

 ほとんどぶつかるようにして、 は孫策の元へたどり着いた。だが孫策は衝撃でよろめくことなく、わずかに身を屈めて の背中と腰に腕を回してしっかりと支え、次の瞬間に持ち上げた。 の足先が軽々と床を離れる。

「あー!元気だったかぁ!」

  のちょうど胸のあたりに顔をうずめるような格好になった孫策は、 を見上げる。それを逆に見下ろす が視線を受けとめたとき、孫策の顔全体にみるみる笑みが広がる。その表情のまま孫策は を下ろし、 の足先がゆっくりと床に着けられる。

「伯符さま…おかえりなさいませ」

「ああ」

 正面に向き合い、互いの腰を抱き合ったまま言葉を交わす。

「まさか今日お着きになるとは思っていませんでしたわ」

「へへ…早くお前に会いたくてな…」

 孫策が照れたように笑ったとき、その様子を見ていた周瑜の視線が一瞬気遣わしげなものになった。

  はそれを見逃さなかった。周瑜のほうも気取られたのを悟ったのだろう、やれやれというように口を開く。

「…伯符。くどいようだが今後、無茶は絶対にするなよ」

「公瑾。その話はもういいだろ」

、君からもよく言っておいてくれ」

「何だよ、 は関係ねぇだろ」

 孫策と周瑜のやり取りを聞いていた はそこで口を挟んだ。

「…おそれながら伯符さま…あまり公瑾さまを困らせるものではありませんわ…」

  の口調は控え目なものだったが、それを受けて孫策は悪戯をとがめられた子供のように決まり悪げに頭をかいた。

「…分かったよ。約束する」

 孫策の身を案じる周瑜の気持ちは にも分かる。孫策の返事に周瑜と は同時にほっと息をついた。

 そのとき数人の官吏が孫策の指示を求めてやってきた。孫策はそれに気付いて名残惜しげに から腕を離す。

、お前は先に俺の部屋行ってろ」

「あ、はい…」

「俺はもうちょっとしたら…水浴びてから行く」

 孫策はそこでわずかに身を屈め、 の左の耳元でささやいた。

「…久しぶりに可愛がってやるから待ってろ」

  の頬にさっと赤みが走ったのを見て取ったのか、孫策はもう一度、一瞬だけだったが の体を抱き締めた。

 直後に二人の体は離れ、 は待っている官吏のための場所を空け、孫策は改めて官吏たちとその場で打ち合わせに入る。

  は孫策に言われたとおりに彼の室へと向かおうと踵を返したとき。

 ふと気付くもののあった が振り向くと周瑜と目が合った。周瑜の視線には今しがたのやり取りに対する謝意が込められていた。

 

  は孫策の室で、戸口を背にして立ったまま格子の隙間から外を見ていた。

 先ほどの孫策を挟んでの周瑜とのやり取りを は思い出してた。

 こちらへ来てから少し経った頃に、 は周瑜に呼ばれたことがある。

「伯符は君をずっと手元に置いておきたいようだ」

 いきなり切り出された内容に、 は目を白黒させた。が、次の質問はもっと戸惑うものだった。

「…で、君はその伯符に対して何ができると思う?」

「何、とおっしゃいましても…」

 質問の意図からしてよく分からない。が、 は我が身を思い心のままに答えた。

「…正直、私に特別に何かできることがあるとは思えませんが。戦に関しても政務に関しても公瑾さまをはじめとして皆様がいらっしゃいますし、私はこの通り身一つでこちらへ参りましたので伯符さまに分けて差し上げる財もありません」

「…そうだな」

 周瑜は否定しない。 は特に気を悪くもせずに頷いた。本当のことだからだ。

「…私がこちらへ参る以前からこちらは成り立っています。伯符さまは足りぬものはすべてご自分で補ってこられたと思います。あの方はそれができるだけの力と手段をお持ちです」

 そう。自分はここにいなかったから、孫策は自分の力で何とかしてきたはずだ。

 自分が孫策のいないままに何とかしてきたように…と は心の中でつぶやく。それができなくなってきている自分にも気付いてはいる。が、今の周瑜との話には関係ないのであえて言う必要はないと判断する。

「君の言う通り、必要な助言も手助けも、皆は与えることができる。伯符はあれでなかなか根は素直な奴だ。こちらの言うことは聞いていないようでちゃんと聞いている。問題はそれをすぐに忘れてしまうことなのだが…」

 周瑜は続ける。

「ここに伯符に手を貸すのを惜しむ者などいない。皆がいれば伯符を補佐することも、こういう言い方をするとあいつは嫌がるだろうが守ることもできる」

 周瑜はそこで言葉を止めた。 は黙って聞くことで先を促す行為に代える。正直なところ は周瑜の言いたいことを量りかねていた。話の流れと自分がこうして呼ばれたことと合わせて考えると次は 自身が孫策にとってどういう存在であるかを周瑜は言いたいのではないかと予想する。

 君は気付いているか、と周瑜は言った。 

 そして続けられた内容は…。

 

「何考えてる?」

 突然後ろからかけられた声に、 は飛び上がりそうになった。立ったままの自分と格子窓との間にぬっと伸びてきた二本の腕が自分の胸と腰の中間辺りに絡む。その腕に力が込められて の背中はすぐ何かにぶつかった。もちろんその人の体だ。考え事に夢中で気付かなかったが、いつの間にか孫策が来ていたらしい。

「…何も」

  はすぐに冷静さを取り戻して答えた。

「…嘘つけ」

 すぐ後ろ…自分の右の耳のすぐ後ろから低い声が響く。

「…伯符さまのことです」

  は言い直して自分の手を孫策の太い腕に重ねる。孫策の腕はひんやりと冷たい。本当に「水」を浴びてきたらしい。

「…ならいい」

  の答えに孫策は満足したようだった。

「俺といるときは、俺のことだけ考えてりゃいいんだよ」

  の腕の下で孫策の手が動く。 はそこで体の向きを変えられ、孫策と向かい合わせになる。二人きりでこうすると、 の心臓は高く脈打ち始める。

 孫策は左腕を動かして の腰に軽く抱き寄せる。

 次に右腕がすっと伸びて の左の頬と軽く撫で、左肩、左腕と滑り、一度離れて脇のしたから腰のくびれの辺りを上下に彷徨った。

 孫策に撫でられるのはとても嬉しい。

 が…何というか…。

  は孫策の手の触れるところが…とても言いにくいが少し違う場所であることに若干の戸惑いを感じる。

 久しぶりなのに…。

 先ほど広間での別れ際に孫策の言ったことを は覚えている。

 …遅い、とでも言えばいいのか…。

 心のままに、少し乱暴なくらいに求められるほうがまだ安心する。

 こういうのはどちらかというと苦手だ…欲しているのは自分だけのような気がしてくるからだ。

「そんな物足りなさそうな顔すんなよ」

 うっかり表情に出てしまったのだろう、孫策がこちらを見てくすくす笑う。 は反応に困る。否定するのは素直でないし、肯定するのも品のないような気がする。が、孫策が見たかったのは がそうして対応に苦慮しているところだったらしい。

「お前が困ってるところなんて、滅多に見れねぇよな…」

「…あまりからかわないでください」

「まぁ、そうだな。考えとく」

 あくまで楽しげな孫策の返事に が憮然たる表情を見せると、孫策が に目を合わせたままぐっと顔を近づけてきた。

「怒るな。あっちにいる間中ずっとお前のことばっかり考えてたんだ。これくらいは許せ」

 孫策の言葉に はどきりとするものを感じ、それについて問おうとしたとき。

「本当だぜ」

 気付いた孫策が の問いかけより早く答えを口にする。そして の反応を待たずに、唇が重なった。

 軽く触れ合わされた後、孫策の舌が の舌を求めて口内に入り込んでくる。

「… …ん… …ん…」

 すぐにお互いの舌が絡み合った。そうして孫策は唇は離さぬままときに甘くかみ、ときに吸い上げる。

 激しく続けられる口付けに、体の力が抜け始めた が喉をのけぞらせても、まだまだとばかりに孫策の唇は追いかけて、再び のそれを捕らえる。孫策の舌は の口内を動き回り、存分に舐め、味わい尽くす。

「…会いた…かったんだぜ…」

 孫策は左手で の体を支えたまま、右手で の左の頬に軽く触れてそのまま の前髪をかき分け、頭の後ろを通ってうなじから首の前へと撫で上げる。

「…まったく…お前に会えなくて…」

 口付けは止めぬまま、続けられた孫策の言葉は に先ほど中断した記憶…周瑜の言葉を思い出させた。

 周瑜はこう言った。

 

。伯符を狂わせることができるのは、君だけだ」

 

 正確には君の不在が伯符を狂わせる、と周瑜は付け加えた。それを聞いたとき はその意味がよく分からなかった。正直、今でも分からない。

 狂う…?この方が…?まさか。

 自分のいないときの孫策の姿を、 は知らない。自分が言っていないのと同じように孫策も語らなかったからだ。そしてお互いにあえて深くは訊かなかった…少なくとも今までは。

 「お前に会えなくて…おかしくなるかと思った」と…ようやく唇を離して孫策は言った。

 そうしながらその唇は休む間もなく の左の首筋を這っていく。

 先に の首に触れていた孫策の右手はそのまま下へ向かって着物の合わせ目に差し入れられる。

  の胸の左のふくらみを手のひらで弾力を確かめるようにやわやわと揉みしだいた後、その親指が先端を捕らえ、くりくりっと力が込められる。

 その甘い刺激に は悲鳴に似た声をもらし、遊んでいた両腕で孫策の腰の辺りを思わず抱き締める。そのままの状態で気を静めるために深く呼吸をするが、吐く息はゆっくりで、甘やかなものになるのはどうしようもなく。

「…あなた様が…おかしくなるところなんて…想像でき…ませんわ…」

 動き続ける唇と指に翻弄されながら、 は途切れがちに言葉を発する。今はまだ何とか話をすることもできるが、体が中心部からどんどん熱を帯びてきているのが分かる…じきに立っていることも難しくなるだろう。

 それでも自分はきっとこれから…気を失うまで彼を求め続けるに違いない。

 自分の心を制御できない状態に対して「狂う」という言葉を使うなら、狂わされるのは間違いなく自分のほうだ。

 だから は思う…見てみたい、と。

 もしこの方が「狂う」のならば、狂う様を。どんな風に狂うのかを。

 それが彼の彼たる一部であれば、見てみたくないわけがない。

 が、そのとき孫策の動きが止まった。彼にしては珍しく少し迷うような表情を見せてから、顔を上げる。

「お前は…そういう俺を知らない」

 腰に回された腕に力が込められ、 の体が孫策の体にぐっと押し付けられる。知ってほしいとも知ってほしくないとも判断のつかない微妙な言い方だった。

「ええ…存じません…」

  はその腕に身を任せながら、事実だけを答える。

「知りたいか?」

「はい」

「知って…どうする」

 孫策は の腰を抱いたまま、挑むような視線を向けた。

 あのとき、周瑜は言った。

 「だからできるだけ伯符のそばにいてやってくれ」と。

  は知らずに微笑がもれる。

 …言われるまでもない。

  は孫策の視線を真正面に受け止め、問いに対して口を開く。

 彼の背中に手を回し、抱かれる力に負けぬほど強く強くその人を抱き締めて。

 答えは決まっていた。

「それでもあなた様が好きだと申し上げましょう」

 

 


 

いつもながらひねりのないタイトルですみません…。

 

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