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日暮れの執務室

 

 

「伯符。精が出るな」

 名を呼ばれて俺は顔を上げた。

 橙色に染まる、いつもの執務室。そこで初めて時刻が夕方であることに俺は気付いた。

「…ん…まぁな」

 答えながら伸びをすれば体中が痛んだ。どうやらかなり長い時間、同じ姿勢でいたらしい。

「手伝うが?」

 俺の机の上にある布やら紙やら竹やらに書かれた多くの資料の山を見て、公瑾が言った。

「いや、大丈夫だ。大分いいところまで来てるんだ」

 ぐるぐると首を回す俺の隣で、公瑾は資料に目を走らせる。

「呉都、の構想か…。お前は最近そればかりだな」

 そう、俺が行っていたのは、この呉都そのものの運営方針の作成。 

「大まかなところは権がやってくれてるんだ。あいつはこういうの、俺より上手いから」

 とは言ったものの、公瑾の指摘通り、俺はこの頃はこれにかかりきりになっている。

「常に考える余地があるだろ。状況はどんどん変わってくるし、金も人も限られてるから、それをどこにどう配分すれば最も効率がよくなるか…」

「それは分かるが…。伯符、こっちの地図は何だ?」

「そっちに積んであるのはまだ見ていない地区。今日中にそこの分にも目を通して、少なくとも全体像の確認まではしようと思ってる」

 その地図の量は、少なくはない。

「なるほど。だが詰めるのは結構だが、それではかなり時間がかかるだろう。いいのか?」

 公瑾が心配しているのは、仕事のことではない。

 仕事が終わった、その後のことだ。

「…いいんだ」

 なるべく平静を装って、俺は言った。

「喧嘩でもしたのか」

 誰と、など確認する必要はない。

「そうじゃないけど…」

 俺は首を横に振る。

「あいつだって、一人になりたいときがあるから…」

「そうか」

 公瑾はそれ以上問わなかった。

「私はしばらくいる。必要なときは声をかけてくれ」

「分かった。悪ぃな」

 公瑾が執務室を出ていく。

 俺は一人になった。

 ため息をついて、窓の外を見る。

 金色の光が、散り散りになった雲を照らし出している。

 今頃、同じ空を見ているだろうか。

 

 

 秋。

 あいつは実家の墓を参りにいく。

 だが、それとはまた別に、墓参りから帰ってきたときと同じ表情で空を眺めているときがある。

 何を考えているのかは知っている。

 気を、静めているのだ。

 自分の思考が、負の方向へ流れていかないように。

 

 以前、驚かせるつもりでこっそり室に入ったとき。

 あいつは、泣いていた。

 俺に気付いたら、涙をぬぐいながら振り向いて、言った。

「見苦しいところを…申し訳ありません」

 あいつは謝るようなことは何もしていない。

 でもそんな風に俺に気を遣う。

 そういうときに思い知らされる。

 癒されない、悲しみと、憎しみ。

 俺には永久に分からない孤独。

 俺にはあいつを慰められないと。

 

 物心ついたときから親父がいて、権がいて、尚香がいて。

 それから公瑾がいて、子明がいて、たくさんの仲間がいて。

 だから俺はあいつの苦しみを、多分一生本当の意味で分かってやれない。

 もちろん想像はできる、でも。

 頭で想像することと、実感として分かることは天と地ほどに違う。

 例えばあいつを抱き締めたときの体の温かさ、口付けしたときの唇の柔らかさ。

 そうしてみて、本当に初めて分かった。

 あまりに温かく、あまりに柔らかで。

 二度と離したくないと思った。

 こんな俺だから、あいつの泣き顔を見て真っ先に思い浮かんだのは。

 あいつは泣き顔も…本当に可愛いということ。

「失礼しました。もう大丈夫です」

  は顔を上げていつもの口調で言った。

「いいのか?気になっていることとか、困ったこととかあれば相談に乗るぜ?」

「いいえ、少し感傷的になっていただけです。問題ありませんから…」

  はそうやって俺に気を遣う。

 そして俺にそれを悟られまいとしている。

 俺への心証を、悪くしないために。

 それが分かるから、俺は言われた通りに納得するしかない。

 あいつはそうやって生きてきたのだろう。

 立場の弱いものは、強いものからなるべく攻撃されないように、なるべくなら可愛がられるように振る舞うのが一番いい。

 そうやって、自分の身を自分で守ってきたのだ。

 

「でもそれは、今までの話だ」

 竹簡の糸のほつれを指でもてあそびながら、俺はつぶやく。

「これからは、何の心配もしなくていいんだからな、お前は」

 自分でも情けないし、悔しいとも思うが、俺は の気持ちを分かってやれない。

 俺が孤独を「分かる」と言ってもまったく説得力がないことくらい自覚している。

 だから俺にできることは… を二度とそんな目に遭わせないこと。

 不自由な思いも、つらい気持ちにも、させないこと。

 俺は机上に広げられた布の地図に目を向ける。

 この呉都の全景だ。

 呉都が平和なら、 を危険な目に遭わせなくて済む。

 治安がよければ、 は安心して外出できる。

 商業が盛んなら、 が楽しんで買い物にいける。

 食物が豊富なら、 が美味しいものを口にできる。

 この呉都において、俺が上の立場にいてできること。

 全部、お前のためにする。

 お前が呉都にいるなら、呉都を最高の街にする。

 お前は泣いた顔も可愛い。

 でも、やっぱり笑った顔が一番可愛いんだ。

 その笑顔を守るために、俺にできることをやりたい。

 なぁ、

 お前は明日着る着物の柄とか、今度食べにいきたい料理とか考えてりゃいいんだよ。

 お前に降りかかる面倒があれば、全部俺が引き受けるから。

 だからお前は、何も心配しなくていいんだ。

 

 ふと、まぶしさに気付いて俺は窓に目を向けた。

 先ほどよりも陽が傾いたせいだろう、金色の光が直接差し込んでくるのを見て、俺はわずかに目を細めた。 

 

 …正直なところ、本当は俺のことだけ考えていてほしいんだけどな。

 …俺が、お前のことばかり考えているように。

 

「さて。もう少し頑張っかな」

 もう一度伸びをして、俺は机上に目線を戻し、中断していた作業を再開する。

 

 今、俺はこんなところでこうしてるけど。 

 お前さえ望めば。

 俺はいつでもそばにいるからな。

 

  


 

相変わらずひねりのないタイトルですみません…。

 

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