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護持(後)

 

 

  は通路を抜けた。

 眼前に飛び込んできたのは棍を振るう孫策。その棍に捕らえられているのは老人の姿をしたもの。

 あれが于吉なのだろうか。

  はごくりとつばを飲み込んだ。

 

 本当に、仙人に、手をかけた…!

 

 孫策の棍が完全に于吉の腹に食い込んでいる。あれで倒れなければ人ではない。

 于吉がよろめき、後退るようにして孫策から離れる。だが実際に倒れたのは孫策のほうだった。そのままの姿勢で動かなかった孫策の指から棍が抜け落ちる。そしてそれを追うように床に崩れ落ちた。

「伯符さま!!」

  は孫策のところへ駆け寄り、膝をついた。その様子を見た于吉が声を発した。しゃがれたような嫌な声だった。

「愚かな。わしを害そうとすればその報いを受ける。意識が落ちれば戻ることはなかろう」

「ま、まさかそんな。伯符さま!しっかりなさってください!伯符さま!」

  は倒れたままの孫策の肩を揺さぶった。その体はひどく重く、冷たくなってきている。病とも似て異なる何かとても嫌なものが孫策の体を蝕んでいるのが分かった。

「あと少しでお別れすることになるのだ。今のうちに名残を惜しむがよかろう」

 それは方便だと は思った。こちらが抵抗する気力を失わせるために言っているだけだ。

 それでも孫策の顔色の悪さは の認識を悪いほうへと導いた。

「伯符さま…」

 返事はない。

「伯符さま…」

  の体ががたがたと震えた。気持ちとは裏腹に頭の中は于吉の言葉を認め始めている。

 もう意識もないのかもしれない。

 孫策の唇がわずかに動いた。うわごとだろうか。

 孫策の腕が彷徨うように動いた。

 それが何を意味するのか、 には分かった気がした。

 

 孫策は、誰かを、何かを探しているのだ。

 

 それを考えると、押しつぶされるような苦しさがわいてきた。

 自分はそれに対して何をすることもできない。

「伯符さま…ごめんなさい…」

  は呆然とする自分の目から涙があふれてくるのが分かった。

 

 自分は謝らないといけないのにちゃんとした声にならない。

 肝心なときにお役に立てなくてごめんなさい。

 ここにいるのが、私で、ごめんなさい…!

 

 孫策の指が、 の手首に触れた。

 そのとき、孫策がその名を呼んだ。

「… …」

  は耳を疑った。今、何と言った?

「… …いるんだろ…。手を貸せ…」

 孫策のどこにそんな力が残っていたのだろうか、孫策の指先が白くなるほどきつく握り締められる。

「…俺があいつを…叩きのめしてやるから…」

  は耳に入るままにその言葉を聞いていたが、やがてぐっと強く目を閉じた。

 まぶたから押し出された涙が更に頬をつたった。

 胸のうちにせりあがってきたのは、自分に対する怒りにも似た感情。

 自分は何をしているのだ。

 今すべきことはこんな風に泣いていることではない。

 この人がそんな簡単に、屈するわけがないのに…!

  は目を開けて片手で乱暴に涙をぬぐった。

「…大丈夫ですよ、伯符さま」

 握り締められたほうの手首をそっと孫策の指から抜きにかかる。孫策の指が抵抗するように動いた。 は握り返すことで「心配ない」の合図とする。孫策の力が緩んだ。 は手を離し、立ち上がった。

 今の間に于吉は少しは体力を回復したのだろうか。いつの間にか何人かの将兵が を囲んでいた。

  は体の横で両手を使って剣を水平に構え、一度深呼吸をしてから足を踏み出した。

 一番近い位置にいた将兵を は斬った。宙を舞う布に刃を当てたようなおかしな手ごたえの後に、将兵は煙となって消える。同時にめまいが を襲う。 は二人目を斬った。その瞬間に力が抜ける。一人斬るごとに力を奪われる。そしてこの忌まわしい感じ…これが呪いというものだろうかと は考える。

 決して信心深いほうではないが、仙人に対するおそれという感情を は持っている。仙人に手をあげたものはたたりを受けるという話は本当だろうと は思っていたが、それは今は確信に変わっている。そしておそらくこの将兵らは于吉の分身で…。

 剣を振るうごとに体力と気力を同時に奪われながらも を正気づかせていたのはぎりぎりと締め付けるような胸の痛みだった。

  は残った二人の将兵をまとめて斬った。膝が折れそうになる、しかし踏みとどまる。

 

 孫策は幻の相手は自分がやると言った。

 それで被るであろうたたりを侮ったのか、いや、違う。

 孫策は知っていた。

 その上で「手を出すな」と言ったのだ…!

 

 もっと早く気付くべきだったと は唇を噛む。

  は剣を構え直し、切っ先を于吉に向けた。

「わしに手をかけるか。言い伝えを知らぬわけではあるまい」

「ええ、知っています」

  は于吉に近付いた。

「伯符さまをすべての刃からおまもりするのが私の役目」

 そう、それが私の役目だ。

 私はそのためにいる。

  は于吉から目をそららずにさらに一歩近付く。

「あなたに止めを刺すことで起こるであろう最後の厄くらい…私が引き受けないと護衛になりません」

「あの者はすでに背負いきれぬほどの厄を集めておる。お前ごときが今頃肩代わりなどしても無駄だ」

 しゃがれ声が響く。 は足を止めない。

「何とでも。どのみち伯符さまのお手をわずらわすことではありません。私が今すぐ斬って差し上げます」

  は一気に踏み込んだ。

 

『死ぬときは大喬の腕の中がいいな』

 

 頭の中にその言葉がこだまする。

 よろしい、その瞬間は譲ろう。

 その代わり、と は思う。

 私は彼が生きるために力を尽くそう。

 その瞬間を。

 少しでも。

 先送りにするために。

 

 剣先に手ごたえを感じたとき、于吉の姿はゆがんだ。 の剣は抵抗を失い、かぁん、と音をたてて勢いよく床を削る。石畳の硬い感触が剣を通じて の腕に伝わってきた。

 煙となって于吉は消えた。

  は剣先を見つめる。

 結局これも幻だったのか…?

 判断もつかぬまま、 は後ろにいるであろう孫策の様子が気になって振り返ろうとした。

 突如、強烈な頭痛が を襲った。 は剣を杖代わりにして体勢を保とうとした。が、とても立っていられない。直後に右肩に鈍痛が走った。壁にぶつけた、と思ったときに世界が微妙に回転した。ぶつけたのは壁ではなく床だったらしい。が、それもすぐに意識から追い払われる。頭の中に更なる激痛が来たからだ。ただの頭痛ではない。こんなのは初めてだ。

 私、どうなるんだろ…?

 急に不安が押し寄せてきた。不安は膨らんでそれは体の中から冷えるような感覚へと変わる。

 激痛が の意識を突き飛ばそうとする。

 それでもその意識の端っこを がつかめたのは、孫策の声を聞いたような気がしたから。

  はふと気付く。

 どのみち自分には孫策を看取ることはできないだろうと。

 自分は護衛だ…先に倒れるのは孫策ではなく必ず自分であるべきだから。

 でも、と は否定する。

 今はまだ、そのときじゃない…!

  

 痛みによって固く閉じられたまぶたに映る真っ暗な世界を破ったのは突然の浮遊感。

 ふっと自分の体が持ち上げられるのを は感じた。が、それは一瞬で次に下ろされる。

「… …心配すんな…」

 遠くからか近くからか、声が聞こえる。肩が支えられる。

「…すぐによくなっから…」

 上半身が何かにもたれかかった。

「…だから…起きてくれ…」

 頬に落ちた髪が分けられる。

…!」

 今度ははっきりと聞こえた。同時に頭痛の波が弱まった。目覚めにも似た感覚を味わいながら はうっすらと目を開けた。黒地に金色の刺繍がすぐ近くにある。いつも見ているのは同じ刺繍でも背中のほうだけれども。

「伯符さま…?」

!!」

 自分のすぐ耳元での大声に は飛び上がりそうになった。

「やっと起きやがったか!この寝ぼ助!」

 孫策が怒鳴った。

「あ…すいません…」

 なぜ怒られるのかさっぱり分からないが はついいつもの癖で謝った。こうして譲歩することでとりあえず怒気をそいで話のできる状態にするのが習慣だからだ。

 孫策が真顔に戻る。 

「お前、あいつを斬ったのか」

「…はい。我ながらバチ当たりだとは思いましたが」

「俺がやるっつったのに…!」

 自分を支える腕が、ぎり、と締まったのを感じつつ、 は今の自分の状況をそっと目で確認した。信じられないことだが自分は今孫策の膝の上に抱かれているようだ。

「…でも、消えてしまいました。逃げられたのかもしれません」

「そうか…」

 孫策が姿勢を変えなかったので もしばらくそのままでいた。頭痛は徐々に和らいでくる。痛みがほとんどなくなるのを待ってから は口を開いた。

「伯符さま。私、やっぱり護衛は続けることにします」

「はぁ?何だって?」

 孫策は の言葉に拍子抜けしたような顔を見せた。

「ちょっと前に辞めるって言ったばっかりじゃねぇか」

「…それはその…もういいんです。大丈夫です。私には…できます」

「もういいって、何だよそれ。何かあったんじゃなかったのか」

「いえ…当たり前のことに、気付いただけです」

 そう、知ってしまえば何もかも当たり前のことだ。

「分かんねぇヤツだな…」

「だめですか?」

「いや、そうじゃねぇけど…」

 孫策はため息交じりの口調で「でもお前ってさぁ」とつないだ。

「本当に分かんねぇヤツだよな」

「そうでしょうか」

「だってそうだろ」

 孫策の言いたいことがよく飲み込めない に対して、孫策の口調は堂々としたものだ。

「最初にしたってそうだぜ。…お前、事前審査の希望欄にいっつも俺の名前書いてただろ」

「…はい」

  はしぶしぶ認めた。見られていたのか。当然といえば当然だが。

「俺を希望するなんて、こりゃなかなか見所のヤツが応募してきたなと思ってさ。んでどんなヤツかと思って顔見にいったら何と酒宴で俺を振ったヤツだったからびっくりしたぞ。おもしろいというか分かんねぇというか…」

 あの酒宴のことを孫策が覚えていたとは。 は赤面するしかない。

「んでまぁどれどれと思ってちょくちょく様子を見にいってたんだけど…」

 孫策は話を続ける。

「いつ見にいっても、お前すっげぇ気迫だったよな。こりゃいいヤツが応募してきたなって気がしたんだよ。んで何がお前を動かすのか聞こう聞こうと思ってたんだ」

 問いかけるような の表情に、孫策は「だってさ」と続ける。

「そういうのが意外と生死を分けたりするんだぜ。そういう何かがさ、あともうちょっとで危ねぇ…ってところで、こっち側に引き戻してくれるんだ」

  は神妙に頷いた。たった今そういう体験をしたばかりだ。だが自分はともかく。

「ですが…伯符さまはそういうところで負けるような方ではないと思いますが」

 それもたった今証明されたばかりだ。だが孫策の返事は の予想とは異なっていた。

「俺もそう思ってた」

 孫策は軽く天井を見上げた。

「でも最近は…于吉が出るようになってからだな。正直、俺は怖いときがある。幻なんかは別にどってことねぇけど、怖いのは突然来る痛みにやられて俺自身の気が参っちまう瞬間が来ることだ」

  は孫策の言葉を黙って聞く。

「なんかさ。こう、すーっと気が抜けるっつーか、何もかもどうでもよくなっちまうというかそんなときがあるんだよ」

 孫策は軽く首を振る。

「でも訓練でも何でもガンガン飛ばすお前を見てたらさ…きっとはね返せる…そう思えるようになった」

 孫策は一度言葉を切った。

。もし俺が負けそうになってたら」

 孫策の口調からは冗談めいたものは感じられない。 はじっとそれを聞く。

「そのときはぶっても蹴ってもいい。必ず俺を引き戻せ。お前ならできるから」

「…分かりました」

  は頷いた。そして自分の頭の中に仕事を一つ書き加える。

「では遠慮なくそうさせていただきます」

  の返事に、孫策は少しほっとした様子を見せた。

「お前は…心配ないよな?」

「はい」

  は即答した。今なら自信はある。自分は此方にしがみつくことができるだろう。たった一つの条件さえ満たされればいいのだ。

 それを口に出す気になったのは、倒れた孫策を見て、その可能性があることを見て、痛烈に思ったこと…願いそのものだったから。

「大丈夫です。…伯符さまがいらっしゃれば」

 孫策はしばし黙った。だが驚いた様子はなかった。半分すねたような顔で を見て、紡がれた言葉はやっぱりすねたような口調によるものだった。

「…初めからはっきりそう言え」

「でもあのときはそうじゃなかったんです」

「そういうことは聞きたくねぇ」

 孫策の腕が締まった。 の頬が孫策の首のあたりに押し付けられる。衣擦れの音がする。孫策と、自分のと。

 孫策が片手を床について の肩を抱き直そうとした。その拍子に遊んでいた の片手に孫策の手が触れた。孫策は の手を押しつぶすようにして握り締めた。つかまれた手の感触に、 は何となく先ほどのことを思い出す。

「なぁ、

「はい」

「俺にさ、もう少しお前のことを覚えさせてくれ」

 その意味するところを悟って、 の全身に緊張が走った。抱かれている肩やら腕やらが急に意識されてくる。距離だけならばいつもすぐ側にいるが、こういう近さは初めてだ。

「触れたときにそれがお前だって、すぐ分かるように」

 心臓が脈うち始める。 は動揺を押し隠すように、なるべく体を動かさないようにして静かに息をつく。

 「…はい」

  はそれだけを短く答えた。

 間違える人ではないことはもう分かっている。

 でも、もっと覚えてもらうのもいい。

 そして自分も、もっと覚えよう、孫策のことを。

  は灯りに照らされて床に映る自分の影を見た。

 孫策の影と自分のそれが重なった。

 

「本当なら…お前のためを思うなら、こんな仕事はとっとと辞めさせるべきなんだけど…」

 広間に孫策の声が響く。

「なぜですか」

 聞き返すのは の声。

「お前の命を本気で削ることになるかもしれねぇ」

「かまいません」

 孫策の言葉に対し、 の返事はよどみない。

「また于吉が出たらどうする」

「止めを刺します」

 続く笑い声は孫策のもの。

「よし、決まりだ。 、護衛は続けろ。俺のためにな」

 

  


 

 えー、孫策伝、大喬伝とプレイして思いっきりブルーになった自分を慰めるべく書きました(←さみしいヤツめっ!)。たたりはヒロインがちょっとは引き受けるからもう少し元気で長生きしてくれ孫策よ!!同じくブルーになったという方の気晴らしの手助けになればよいのですが、なおさらブルーになったらごめんなさい…。

 ちなみに「仙人を斬ったらたたりにあう」というのは三國志8の于吉が自分で言っていたことです。たたる気満々だよね于吉…。

 なおタイトルの「護持(ごじ)」はまもること、くらいの意味です。

 

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