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護持(中)

 

 

「…何だって?」

 しばらく経ってからようやく孫策は聞き返した。

「呉都に戻ったらお暇をください」

  は繰り返した。

「それは今聞いたぜ」

 孫策は怒ったように机から足を下ろすと立ち上がった。顔がむっとしている。

 訊かれたから答えたのに、と は思う。この勝手な物言いにもすっかり慣れたが、それを聞くのもこれで最後だろう。

「おい 、どういうことだ。何でだよ」

「その…これ以上やっていく自信がないんです」

「はぁ!?もっと分かるように言えよ!」

 孫策の声が大きくなった。 はうつむく。沈黙が流れる。先に破ったのは孫策だった。先ほどとは打って変わって声は落ちていた。

「…お前さ、最近元気なかっただろ」

  はどきりとした。普段通りに振舞っていたつもりだったが。

「隠してたみたいだったけど…何かあったのか?そのせいなのか?」

  は言葉に詰まる。

 まさか本当のことを言うわけにもいかず、 が視線をさまよわせたとき。

 孫策が突然はっとしたように首を動かした。

  はつられて孫策が見ている方向を見た。

 …何もない。

 あえて言うなら卓に日用品が一緒くたに置いてある…筆入れ、書簡、着替え、鏡…どれも先ほどからあったものばかりだ。

 孫策はつかつかと窓辺に寄ると、格子の間から外を見た。

 ただならぬものを感じ取った は孫策に従って窓辺へと近付く。

「どうなさいましたか」

「しっ!」

  に対し、孫策は人差し指を立てて「黙ってろ」と仕草で伝える。 は頷いて物音を立てぬようにしながら窓の外へ目をやった。

 星明かりだけの景色は黒く、輪郭もおぼつかない。

 そのときかすかではあるが高い音が の耳に入った。 はその音を特定するために周囲に目を走らせたが、どこから聞こえてくるのかがなぜか分からない。細く長いそれが笑い声だと気付いたのはその後。

 そして外の暗がりの中に人影のようなものが見えた。 は見間違いかと思った。次の瞬間には消えてしまったからだ。

「あの野郎…」

 孫策が低くつぶやいた。

「今のは…?」

、話は後だ」

 問いかける を孫策はさえぎった。愛用の棍を携えると孫策は戸口に向かった。

「ちょっと行ってくる。すぐ戻るからお前はここで待ってろ」

「あ…!伯符さま!」

 孫策は扉を乱暴に開けると駆け出していた。孫策の足音が遠ざかっていく。

 部屋に一人残されたかたちとなった はどうすべきか迷った。

 本来、待機を命じられては待つしかないのだが…。

  は卓上の鏡を何となく手に取った。

 自分の顔が映るのを見ながら は先ほど現れてそして消えたものを思い出す。

 何かは分からない。しかし、尋常ではない。

  は孫策が開け放ったままの扉を見た。

 胸騒ぎがする。ひどく嫌なものが近くにいる、そんな気がする。

 自分は護衛は辞めたいとは思うが、孫策を危険にさらしていいこととは別だ。

 …やはり、お一人で行かせるわけにはいかない。

  は鞘に収まった長剣をつかむと、孫策の後を追った。

 

「伯符さま!」

「来たのか…しょうがねぇな」

 足音ですでにこちらの気配に気付いていたのだろう、背中を見せていた孫策が振り返った。 は辺りに気を配りながら孫策に近付いた。

 先ほど自分達がいた庁舎よりも少し離れた位置にある建物の入り口で は孫策を見付けた。この建物は祭事にしか使用されないため、日中でも人の出入りはほとんどない。ましてや夜である今、自分達以外には誰もいない。孫策が入れたのであろう灯りが大広間を照らし出している。

 孫策は片腕をほぐすように回した。その動作に はおや、と思った。孫策が棍を振るった後にする癖だったからだ。すでに何者かと戦ったのだろうか。その割には孫策以外の気配はまったく残っていないが…。

「正直、気が滅入ってたところだ。やっぱりお前がいてくれるほうがありがたい」

「…おそれいります」

  はそれだけを短く言った。以前の自分ならば頬を染めて喜んでいただろうが今は逆に悲しい気分になる。自分がいたところで、という捨て鉢な気持ちがどうしてもわいてきてしまうからだ。

「伯符さま。庁舎で見たあれは何者ですか」

 それを押し隠すために話題を変える。 は先ほどからの疑問を口にした。

「あのジジイか。名前は于吉。少し前から俺の周りをウロウロしてやがるんだ」

 于吉。 は反芻する。聞いたことのあるような気もするが。

「お知り合いの方なんですか」

「…まぁ…な…」

 孫策の表情は苦々しい。あまりいい知り合いではないようだ。 は更に問おうとしたが、孫策がさえぎった。

、構えろ」

 孫策の声に が反射的に剣に手をやったとき、 は自分達に近付いてきているいくつもの人影に気付いた。

  は剣の柄を握ったものの、抜くのをためらった。敵であるはずの者は呉の将兵の姿をしていたからだ。中には の知った顔も混じっている。しかも近付いてきているのに彼らの足音がしないのはなぜか。

 そのとき孫策が進み出て棍を振り上げた。棍は一人の将兵の体にめりこんだ…そして将兵の姿は一筋の煙となって消えた。

  は唖然としてそれを見ていた。

「何ですかこれ…」

「幻だ」

 ぽつり、ぽつりと遠くからまた人影が現れる。

 幻の将兵が襲ってきた。幻とはいえこちらに向けられる明らかな殺意に は抜刀し、将兵に斬りかかった。が、 は次の孫策の声で己の動作を止めざるを得なかった。

「だめだ !お前は手を出すな!」

  は刃を寸止めにし、手元に戻しがてら別に襲ってきた一人の剣を弾く。

「俺がやる!お前はなるべく俺に攻撃が当たらないようにしてくれ!幻といっても斬られりゃ痛い!気ぃ付けろ!」

 指示には従う。 は次の刃も弾くだけにとどめ、反撃は行わない。

「ですけど!」

 意味が分からない。

「いいから言うことを聞け!」

 釈然としないものを感じつつも、 は攻撃を受け流すことだけに専念する。視界の端に新手の将兵達が入る。孫策はどんどん幻を消滅させるが、それを差し引いても将兵は更に増えているようだった。

 孫策が額の汗をぬぐうような仕草をした。彼が汗をかくような運動量ではないはずだが、冷や汗だろうか。

 孫策の肩が上下している。意識的に深く呼吸をして気を静めているのだろうか。

  は先に孫策の「気が滅入る」と言った意味は分かると思った。

 次々と知った顔が現れるからだ。

 孫策は が追いつく前にすでに彼らと一戦交えていたに違いなかった。

 それにしても、と は思う。

 おそろしく空気が悪い。

 よどんでいる。これだけで気分が悪くなりそうだ。

 それでいてこの幻はいつ尽きるのか分からない。終わりの見えない戦いというのはやりにくい。体力の配分がしにくいからだ。なるべく消耗しないようにして、なるべく長く戦えるようにしないといけない。

 群がってくる将兵とその刃を は受け流し、弾き返す。

 そのとき将兵の一人の持っている剣が の腕をかすめ、 はひやりとした。数が多すぎる。

 また新手が現れた。

 囲まれたらまずい。 は壁を使って孫策と自分の身をまもろうとするが、将兵は割り込んでくる。

 はぐれてはいけない!

 それが隙になった。自分に振り下ろされる刃をよける際に は体勢を崩した。数歩踏み出して姿勢を正したとき、孫策とは逆の方向へ行ってしまったらしい。目で測った孫策との距離に、その思わぬ遠さに、 の中であせりが生まれる。

  は通路側に追い詰められる。やむを得ず通路に進む。孫策のいる大広間から完全に出てしまった格好になり、孫策との距離は開く一方だ。囲まれて背後を取られることを避けるのに手一杯で は孫策のところへ戻ることができない。

 ふいに に記憶がよみがえった。

 于吉。于吉とは…瑯邪(ろうや)の于吉か?だったら仙人ではないか!

 仙人にまつわる言い伝えも は同時に思い出した。

 仙人に手をあげた者は。

 たたりに見舞われる…!

「伯符さま!!」

 そのとき の周りの将兵が一斉に弾け散った。煙がもやのように通路内に立ち昇り、 は視界をくらまされる。行く先を煙に邪魔をされるのがもどかしく、 は両手でそれをかき分ける。

 何かあったのだ。

 はぐれてしまった苛立ちと不安を振り払うように、 は駆けた。

 

  


 

 

 

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