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護持(前)

 

 

「伯符さま。呉都に戻ったら…お暇をいただけませんか」

 孫策を前にして は切り出した。

 ここは呉都から北西に離れた秣陵(ばつりょう)、後に建業と呼ばれる街である。その庁舎の一室に孫策と はいた。日が沈んでからかなりの時間が経過し、静かな中にまばらに鳥の声だけが聞こえる。

 机の上に足を投げ出して伸びをしようとしていた孫策は意表を突かれたのだろう、その姿勢のまま動きを止めて訝しげに に首を向ける。 は立ったままその反応を見守り、孫策の言葉を待った。

 

  はいわゆる護衛武将である。

 ただしもともとそうであったわけではない。孫策の名の下に呉都で大幅な募兵が行われたとき、ちょうど自分の進路を決めあぐねていた は一般兵として軽い気持ちで出仕したのが始まりだ。

 孫策が父である人の後を継いでからもう八年が経過している。現在本拠地とされている呉郡とその周辺を統べる孫策だが、若さと人柄から親しみを込めた意味で今でも官職名ではなく字で呼ばれている。だがそれは孫策の立場を軽くするものではない。常に先頭に立って切り盛りする姿は間違いなく主と呼べるものだった。

 その孫策と が初めて言葉を交わしたのは の所属する中央庁舎の管轄の部隊をすべてあげての大掛かりな酒宴の席だった。

 酒宴には孫策をはじめとして名のある武将が多く参加していた。しかし下っ端である にご相伴の機会がそうそう回ってくるわけではない。 自身、他人を押しのけてまで上の人達と交流を持ちたいとは考えなかった。とりあえずせっかく同じ場所にいるのだからと高名な武将の顔と名前を一致させる作業だけを行うと、 は同僚と飲むことにした。仕事のことで話が弾むのはもちろん、異性の話題では更に盛り上がった。

ってさぁ、どういう人が好きなわけぇ?」

 大分できあがってきた同僚が尋ねる。

「強い人よ強い人!」

 同じくできあがってきた が返す。

「やっぱこういう仕事してるとさぁ、男も女も強いほうがいいって思わない?」

「え〜じゃあ、例えばぁ?」

「例えば?そうねぇ…」

 同僚の質問に対して が「この辺で強い人といえば…」と思いをめぐらせようとしたとき、ふいに後ろから声をかけられた。

「何かおもしれぇこと言ってんなぁ!だったらこの俺はどうだ?」

 何この人、いきなり割り込んできて…と が振り返った瞬間、 は固まった。

 孫策だったからだ。たまたま通りかかってこちらの話題を聞きつけたようだ。

 正直なところ考えもしなかった名前に は戸惑った。それが顔に出てしまったらしい。

「何だよ、俺じゃ不満か?」

 孫策が声を尖らせる。 は慌てた。こんなことで気分を害されてはたまらない。

「いえ、そうではなくて…、その、おそれ多くて…在り得ないというか…」

 しどろもどろに伝えるが、どうしても言い訳っぽくなってしまうことに はあせりを感じた。

 その時、若い武将が孫策を呼びにきた。確か、凌…何といったか。とりあえず息子のほうだ。

 孫策はまだ文句を言いたそうな顔をしていたが何か用事が入ったのだろう、やがて頷いてその武将と連れ立って去っていった。

  はほっとした。

 

 そして。

  が孫策を意識するようになったのは、この時からである。

 私の心って何ていい加減なんだろうと は思うが、そう感じるようになってしまったものはしょうがない。

  の目から見て確かに孫策は強い部類に入ったのもあるし、何より生気に満ちあふれた言動に はいつしか目を奪われるようになっていた。

 伯符さまのお側で働きたい。

 その気持ちがそういう言葉でかたちになるのに大した時間を必要としなかった。

 上級である武将のための護衛兵団に欠員が出て、補充の募集がかかったのはそんな折だった。

 名のある将は「護衛兵」と呼ばれる将兵を連れ歩く。だが専属の護衛兵を持つわけではなく護衛兵団として待機している者の中から場合に応じて任意で選ぶことになっている。護衛兵団の人数枠は決まっており、その門は狭い。そこに一人分の席ができた。

 うまくいけば伯符さまの隣で戦うことができるかもしれない。

 そう思って は応募した。競争相手は幼少から各地に名を響かせるような英才ばかりであったので、 がその素質の差を補うためには彼ら以上に努力するしかなかった。

 自分でも本当によく頑張ったと は思う。

 何段階かに分けて行われる面接も実技も はあるだけすべての力を出してぶつかった。合わせて実施された書類審査の質問の中で「護衛武将になれたら誰の護衛をしたいか」との問いには多少の気恥ずかしさを感じつつも は必ず孫策の名を書いて決意を新たにした。

 他の応募者に対して抜きん出ることはできなかったが、決して引けを取ることもなかった。

 ときどき訓練の場に孫策が来ることがあった。いつも は誰よりも早くその人の気配に気付いた。

 伯符さまがいらっしゃる。

 それだけで自分の体にどんどん力がわいてきた。訓練中に打ち合う相手は大抵 よりも技量は上だったが、 は負けまいと粘り続けた。結局こちらが力尽きることもあったし、相手を根負けさせることもあった。

 それが最終選考に影響したのかどうかは には分からない。だが は晴れて護衛兵団に籍を置く身となったのだ。

 それに前後して孫策と話す機会も何度かあった。が、酒宴のことを持ち出されたことはない。覚えてないのだろうと は推測する。少し寂しい気もするが、自分としてもあれは失言であったからやっぱりそのほうがありがたい。そして先に提出していた希望が考慮されたのか、その孫策から にお呼びがかかった。こうして は孫策の護衛として働く機会を得ることとなった。

 しかし夢が叶ったと喜んだのはつかの間で、実際に護衛を行うためには更なる努力が必要であることを はすぐに悟った。戦場で孫策は文字通り突っ込んでいく。噂には聞いていたが、現実は噂以上だと は身をもって知らされた。慣れぬうち はよく置いていかれ、戦場で孫策を見失うこともしばしばだった。孫策のいる位置は最前線。敵兵との遭遇率が高いのと同じく危険度も高い。孫策の周りの武将が口を酸っぱくして自重という言葉を繰り返す意味を は切実に理解した。

 常に先へ行き過ぎる孫策に対し、 も他の武将と同じ気持ちを抱いて孫策に追いついたとき、その の気持ちを知ってか知らずか、 が口を開く前にくるりと振り向いて孫策は怒鳴った。

「遅ぇぞ!何やってんだよ!」

 悪いのは先へ行く孫策ではなくて置いていかれる自分のほうなのだろうかと は落ち込んだ。確かに進み過ぎるのは孫策の悪癖だが、それで振り切られてしまっては護衛にならない。

  は作戦を変えることにした。孫策の悪癖は多分治らない。ならば自分はどうやって彼についていくかだ。体力も瞬発力も足の長さも孫策のほうが上である。なので孫策が動いてからその後を追いかけるのではついていくのは至難の業だ。ならば孫策が次はどこへ行くかをあらかじめ予想すればよいのではないか…。

  が孫策の行動を見たとき、あるときその法則に気付いた。

 それは戦好きという性格から感情で動いているように見えて、その実は恐ろしく合理的であることだ。

 この時点でここを叩き、次にここを叩く。そういった流れは効率的であるべきだし、しかも迅速であればあるほどいい。孫策は自分でやるのが一番手っ取り早くて確実だと思っているらしい。勝利への最短距離を自分で実践しているのだ。

 それが分かったとき、 は孫策の背中を追いかけるだけというのは止め、その代わり自分も戦況を読み、次に取るべき行動を考えるようにした。そうすれば結果的に孫策と同じ場所に向かうことになるのではないかと思ったからだ。

 もちろん戦にかけては天才的と言っていい孫策の思考に は到底及ばない。それでも孫策という生きた手本を見ながら先を読む訓練を積むことで明らかに以前よりもついていけるようになった。ある日、背中合わせに戦っていたとき、敵兵を一掃したところで二人は同じ方向へ同時に踏み出した。

 孫策が「おっ」という表情で を見て、それからにやりと笑った。

「頼りにしてるぜ、

 それから孫策はしばしばそういう言葉を口にするようになった。その度 は胸がいっぱいになり、与えられた自分の任務を全力でこなした。何だかんだで孫策にはしょっちゅう怒られるが、それでお呼びがかからなくなるというわけではなく、むしろ孫策に鍛えられて次の実践ですぐに生かすような、そんな日々が続いた。

 呼吸も徐々に合ってきた。相性も悪くない。孫策の隣に立つ時間が長くなるにつれ の中に自信も生まれてきた。

 

 だからこそだろうか。

 孫策をまもるのは自分。

 そういう自負がいつの間にか芽生えていたのだろう。

 それが思い上がりとして木っ端微塵に砕かれたのは、訓練場で戦の話で盛り上がっていたとき、「そういえば」と持ち出された噂話をたまたま耳にしたときだった。

 孫策が以前、戦場に妻たる人を連れていったとき、こんなことを言ったらしいと続けられた内容は を打ちのめした。

 

 死ぬのなら、大喬の腕の中がいいな。

 

 妻のいることは初めから知っていた。それでも頭の中で何となく思っているのと具体的に聞かされるのとでは違う。

 孫策の側で働くことによって単にあこがれるだけでは済まないところへ自分の感情が行ってしまっていたことを は理解した。お呼びがかかることを自分は大きな勘違いの上で受け取っていたらしいことも。

 しかも戦場において「死ぬなら」とは何という仮定だろう。

 自分は孫策の護衛だ。

 そうならないために自分は存在するはずなのに!

 孫策がその言葉をいつ言ったのかは定かではないが、それはどうでもよかった。昔からであれば今更自分が現れても意味はないだろうし、最近であればもっと意味はないだろうから。

  は体から一気に力が抜けるのを感じた。

 今まで孫策に対してわいてきた想いをそのまま力にしてきただけに気力を失った体は急に動かなくなった。無論仕事は完璧にこなしたが、そのためには膨大な理性と自分自身への叱咤が必要になった。気にしてはいけないと自分に言い聞かせても何の効果もなかった。

 疲れが持ち越されるようになり、何をするにも集中力が格段に落ちた。

 仕事が終わって部屋に戻ると、以前であればそれから遊びに出てもおかしくない時間帯であるにもかかわらず一度寝台に突っ伏したらもう起きられない。そんな自分に気付いたとき、 は思った。

 これ以上、護衛を続けることはできない。

  はそう結論を出した。自分がこんな状態で戦場に出て何かそそうをした場合、自分だけではなく孫策自身にも関わるのだ。

  がその噂話を聞いたときには今回の秣陵行きが決まっていたので はこれを最後の仕事にしようと思った。戦ではなくただの公用による同行なので、無難にこなして静かに身を引こうと考えていたのだ。

 秣陵に到着してからすでに数日が経過している。視察や庶事の取り決めごとの相談などを済ませた孫策は明日ここを発つことになっている。孫策が私室代わりに使っている部屋で明日の算段を簡単に確認し、「じゃあまた明日な」と言おうとする孫策に は「実は」と口を開いたのだ。

 

 


 

 

 

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