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風害の日

 

 

 だめだわ。全然寝付けない。

  は閉じていた目をぱっちり開けた。上半身を起こしてきょろきょろと何気なく房を見回し所在無げに髪をいじるが一向に気は休まらない。庁舎で仕事をしていた気分…興奮とでも言おうか…がまだ抜けていないのだ。

 

 この日は庁舎全体が殺気立っていた。原因は数日前に呉郡北部を襲った風害のせいである。各地で家屋の倒壊をはじめとする被害が相次ぎ、決壊した河川の水による陥没は公道にも広がっている。作物の被害についてはまったく把握できていないのが現状だ。

 この自然災害からの復旧が孫呉の中央庁舎の最優先事項となった。それぞれが自分の通常任務を一時中断して対応にあたっている。その中で も助っ人として駆り出された。続々と届く被害報告をエリアごとに分け被害の度合いにランクをつけて統計を取る。統計を取り始めてから三日経つが未だに報告が止む気配はない。初めは一つ一つ丁寧に見ていた だったが、あまりの数の多さに徐々に手元は早くなり、今日は朝からトップスピードで集計を流した。鼻息が自分でも荒くなっているのが分かった。

 作業は夜間に及んだ。区切りをつけようにも被害報告はなおも続いているため には見極めにくい。そこへ周瑜から「今日はもういい」との声がかかった。

「この辺で一度締めることにする。君はもう帰って休んでくれ」

「ですが」

 庁舎全体がまだ活気づいている。とても仕事を終えるような雰囲気ではない。が、周瑜は逆に詫びるような口調で言った。

「…申し訳ないが、明日も頼みたいのでな。気の滅入る話だろうが、頼む」

「…分かりました」

 明日も同じ調子でやらなくてはいけない。そのためにはペース配分も考えなくてはいけない。 はそれで宮廷の自分の房に戻ってきたのだ。

 雑事をこなして後は寝るだけ、という段階になって は自分がまったく眠れそうにないことに気が付いた。仕事をしていたときに生まれたおかしな高揚感がまだ残っており、あれだけ捌いて身体はくたくたのはずなのに、なぜかもっと捌けるような気さえしてくる。横になり、掛け物を被ってもどうにもおさまりがつかない。仰向けになってみたり、うつ伏せになったみたり、右を向いたり左を向いたり、考え事をしたりボーッとしたり、香を焚いたりお茶を飲んだりしてみたが、効果はなかった。そうしてどのくらい経っただろうか。

 上半身を起こした はふと思った。

 伯符さまにお会いしたいな…。

 ここ数日は目まぐるしさでそれどころではなかったが、こうして考える時間ができると頭に思い浮かんでくるのは孫策のこと。

 時刻は夜中近くになっているはずである。さすがにもう自分の室に戻っているだろうか。

 でもお休みのところを邪魔したら悪いし…。

 孫策だって疲れているはずである。それならば、と は思った。

 ちょっと様子を見て、お話できそうだったらそうして、無理そうなら帰ろう…。

 どのみち少し歩いて気分転換をしたい、 はそう思って着替えて房を出た。

 

 宮廷と中央庁舎は廊下で続いている。少し歩いただけで、まだ庁舎のほうがざわついているのが には分かった。灯りは安価ではないため本来ならば日没後の業務は推奨されない。だが、さすがに現在は非常事態よろしく、昼ほどの人出はないものの伝令の声や早馬の蹄の音などなかなか賑やかしい。

  が出窓から何となくそちらのほうへ首を向けていると、庭のほうから呼びかける声が聞こえた。

「おおい! じゃねぇか!」

  が声のした方向を見ると、若い男がこちらに向かって手を振っている。

「あら、興覇さま。こんばんは」

  も手を振り返す。甘寧とは顔見知りだ。甘寧はすぐ近くまで走り寄ってきた。

「まだ起きてるのか!ご苦労さんだな!」

「興覇さまこそ。風害の関係ですよね。どうですか?」

  の問いに甘寧は「やっぱ結構ヒドイぜ」と顔をしかめてみせる。

「家の倒壊までいかなくても、屋根が吹き飛んだってのがすっげぇ多くてよ。落ち着くまでしばらくかかりそうだな」

  はそうですかと頷いた。甘寧は を見て思い付いたように言った。

「あ、ところで 、もしかして伯符サマのところ行くのか?」

「え…あ、はい」

「悪ぃんだけど、これ、報告書なんだ。早く出せって言われてたヤツでさ。渡しといてくれねぇか。俺ちょっと用事があって…」

「それは構いませんけど。何かあったんですか」

「ああ…実はだな。風で吹き飛んだ戸が近所の家三軒くらいの壁を壊したってんで、直せだの直さないだのでちょっと揉めてんだよ。こういうのは不介入が原則なのは知ってんだけど、やっぱ、揉めてんだったら仕方ねぇよなぁ。ケンカになったらまずいだろ、なぁ、ケンカになったら…」

 甘寧はそこまで言って「じゃ、そういうことで!頼んだぜ」と去っていった。

 

 甘寧の口ぶりから孫策はまだ仕事中で執務室にいるらしいことが分かった。仕事中ならば会わずに帰ろうと思っていたのだが、おつかいを頼まれては行かないわけにはいかない。 は庁舎のほうへと足を向ける。その途中で を呼び止める声があった。

じゃありませんか。まだ起きていたんですか」

「あら。伯言さま。こんばんは」

 陸遜だった。

 家屋の損壊がかなりひどいそうですね、と が言うと、陸遜は頷いた。

「全壊よりも半壊や一部壊が多いんですよ。中途半端に壊れてるから、直すにしても足場を組まなきゃいけないし、立て直すために取り壊すのも一苦労です。近くの木が根元から倒れて下敷きになった家もありまして、ようやく皆で一番危ない部分を切ったところですよ」

 陸遜はそう言って、葉っぱか何かを身体から払うような仕草をした。

「吹き飛ばされてばらばらになった材木の処分も手間がかかりそうですね。再利用するにも限界がありますから。こうなったらもう全部まとめて燃やすしかないですよね、燃やすしか…」

 陸遜はそこで、気付いたように咳払いをした。

「ところで、 はもしかして伯符さまのところへ?」

「はい。興覇さまからの報告書をお届けするつもりです」

「そうしたら、申し訳ないんですが、ついでにこれも持っていってもらえませんか。僕の報告書です。僕が直接お持ちすればいいんですけど、もう一ヶ所行かないといけないところがあるので」

  は「いいですよ」と言ってそれを受け取った。

「ありがとう。じゃ、僕はこれで。 、無理はしないでくださいね」

 そう言って陸遜は去っていった。

 

  は庁舎内でさらに何人かに出会い、その都度、孫策へのおつかいを頼まれた。こうなると昼とあまり変わらないような気がしてくる。こういう事態だからというのもあるだろうが、自分が眠っているはずの時間に、多くの人が働いている…そう思いながら歩いていると衛兵に「お疲れ様です」と声をかけられた。 は同じ言葉を返す。

 廊下の向こうに孫策の執務室が見えてきた。扉は大きく開け放たれていて、煌々とした灯りがもれている。孫策の声が聞こえてきた。

「…どうも被害は東のほうに集中してるみたいなんだよな。だから、五つの区域に分けようと思うんだ。まず大きく東西に分けて、東のほうをさらにこう、四つに分ける」

「賛成だ。西は一人でよかろう」

「ああ。んで東なんだけど、とりあえずここが子明。ここが幼平。こっちが公績だ。でも幼平のヤツ、一人で大丈夫かな」

「それは問題ないと思う。昨日の報告書もしっかりしたものだった。むしろ問題は公績だな。災害の関係は携わってから二ヶ月のはずだ。経験が少ない」

「一日でどのくらい回れるものなんだ?」

「一人だと厳しいな。村落なら、ただ見るだけでも八つか九つが限界だろう」

「そうか。そんなら子義をつけて…ん?」

 孫策が卓に大きく広げられた地図から目を離し、顔を上げた。その視線の先には書簡の束を持った が立っている。

「あの…失礼します。皆様からのご報告です」

 それを見た周瑜が怪訝そうにわずかに眉を寄せた。

。とっくに帰ったと思っていたが」

  はとっさに言葉に詰まる。寝ずに仕事をしている人の前で「寝付けなくて」とは言いにくい。答えたのは、 の躊躇を見て取った孫策だった。

「あ、いいんだ、公瑾。俺だ。俺が呼んだんだ。ちょっと息抜きしようと思って」

「伯符!」

。書簡はそこへ置いといてくれ。公瑾、ちょっと向こうの部屋借りるぞ。灯りも一つもらってくから。 、こっちだ」

 周瑜の声を無視して、孫策は片方の手で明かりを、もう片方の手で の手を引いてさっさと歩き出した。執務室の奥にある別室に足を踏み入れ、灯りを卓に置いてから戸を閉めると孫策はすばやく に向き直った。

「あー!よく来たなぁ!すっげー久し振りのような気がするぜっ!」

 孫策はそう言うと を両腕で、がしぃっと抱きしめた。

 いつもの温かい腕の感触。

「あの…ごめんなさい。お仕事の邪魔するつもりはなかったんですけど」

 孫策の口調がとがめるようなものではなかったことに安堵しながらも は謝った。多少仕事をした気になって寝付けないのをどうにかしてもらおうと思った自分が、ひどく甘ったれのような気がしたからだ。

「邪魔なわけ、ねぇだろっ!」

 両腕にぎゅうっと力が込められる。

「ここ数日、問答無用で泊り込みで仕事だぜ!見りゃ分かるだろ?庁舎全体がもう無茶苦茶で手が離せなくってさ」

  は耳の上のほうに何らかの感触を感じた。孫策が頬をすりすりしているらしい。

「でもこうなったら、とっとと復旧作業終わらせるしかねぇと思ってさぁ。やっと見通しついてきたとこなんだぜ」

 そう言って孫策はうううと情けない声を出した。わざとらしく泣き真似をしているのだ。

 そこへ周瑜から声が飛んだ。

 「伯符!灯りを無駄に使うな!」

  は首をすくめた。孫策に対して早く仕事に戻れと言っているのだ。

 孫策は一瞬ちらっといやな顔をしたが、それからにやりと笑った。大声で返事をする。

「りょーかい!」

 孫策の手が、卓上の灯りにさっと伸びて炎を握り締めた。ふっと音を立てて炎が消えた。

 部屋の中が真っ暗になる。

「これで文句は言わせねぇぞ」

 そう言いながら孫策は の唇を求めて首を動かした。 もそれに応えようとした。

 が、お互いに勘が狂ったようで、わずかにそれた。

 

 …暗くても、いつもなら目を閉じていても大丈夫なのに。

 …やっぱ、疲れてんかな。

 

 苦笑しながら調整をかけた二人だった。

  

  


 

右往左往している皆さんが書きたかっただけ…。

 

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