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庁舎の一日

 

 

「だからぁ!親父も張公もいねぇんだよ!違う違う、それはこの前ので、今回は親睦会だと!…知るかよ!だっていねぇもんはしょうがねぇだろ!」

 呉都の中央庁舎である。孫策は孫権と話しながら廊下を並んで歩いている。

「こっちで何とかするしかねぇんだよ!…ああ、頼む!何かあったら俺が言ったって言え!」

 広間に到着した孫策は、その入り口で孫権と別れた。孫策は開け放された扉をくぐって広間に入る。足を踏み入れると同時に、待ってましたとばかりに三方から声が飛んだ。

「伯符さま!先日の風害で滞ってた物資の運搬ですが、北西部と北東部から催促が来てます!」

「伯符さま!軍役についた者の統計について、詳しい内訳を知りたいという方が!どこまで公表していいですか!」

「伯符さま!区役所への事務処理の委譲にあたって、一週間前にこちらへ要請した戸籍の写しがまだ届かないそうですが!」

 孫策も負けじと声を張り上げる。

「水ついたとこ優先だ!」

 最初に質問に答えながら、孫策は待ち構えていた文官に差し出された書簡を受け取り、ざっと目を通す。

「こっちで送っとく!文書で出して上げてくれ!」

 次の質問に答えつつ、孫策は頷いてから書簡を返し、二つ目を受け取る。

「分かった!確認させる!」

 最後の質問に答え、改めて指示を出す。その上で孫策は「ここ数字おかしくねぇか?あとで資料出しといてくれ」と付け加えて書簡を返し、自分の執務机に向かった。大き目の広間では孫策の他に何人もが執務にあたっている。といっても机に向かったままの者のほうが珍しく、次々と違う顔が出たり入ったりで慌しいこと、この上ない。

 今日こそは絶対早く帰ってやる。

 孫策は、机を離れる前に減らしたはずの書簡がまたもや山積みになっているのを見て、自らの決心を心の中で確認した。

 とっとと仕上げて、早く帰るったら帰るんだ。

 孫策は筆を片手に猛然と書簡に目を走らせた。

「あ、伯符さま。そういえば先ほど どのがお見えでしたよ」

 文官の一人が孫策に言った。

「あ、そうか。分かった」

 孫策は何でもないような返事をしながら、内心でがっくりとした。もし何かついでがあれば、こっちに寄るよう には伝えてある。が、これで今日三回目のすれ違いである。どうも間が悪いようだ。

「私はこれから宮廷に行きますけど、何か伝言などあれば伝えておきますよ?」

 文官が言う。

「い、いや、いいんだ。ありがとな」

 孫策は首を横に振って申し出を断り、書簡に視線を戻した。

  に関する用件は単純だ。

 顔を見たい、それだけである。

 実は今夜の約束はすでに取り付けてあるのだが、それとは別にこのくらいの息抜きはかまわないだろうと孫策は思っている。

 ちょっとでもヒマがあればなぁ。

 実行許可の印を押しながら、孫策は思う。

 向かいの客室、わざと今日は空けてあんだよな。ちょーっと連れ込んでイタズラするくらいはやってもいいと思うんだけど。

  は背中が意外と弱いってことが最近分かったから、着物の上からでもどのくらい反応するのか試してみてぇ。

 背中をこう、指でつぅっとやるとさぁ、声あげて背中反らすのが可愛くって。

 書簡が一段落したところで孫策は、次に布に書かれた報告書に目を移す。

 そういやそのとき、胸がガラ空きになるんだよな。あれは触ってくれって言ってるとしか思えねぇ。

 あーやべぇやべぇ、イタズラじゃ済まなくなったりしてなぁ、ひひひ…。

「伯符さま。今よろしいですか」

 空いているほうの手を無意識にわきわきさせていたところで声をかけられて、孫策は夢から覚めたように顔を上げた。

 正面に陸遜が立っていた。不審げに孫策を見下ろしている。

「あ、ああ。いいぜ。どうした」

 孫策は答えた。今更とも思いつつ、両手をきちんと机の上に置く。

「では。この前の…」

 陸遜が言いかけたところで、太史慈が駆け込んできた。

「伯符さま!西分所の公瑾さまから伝言です!」

 孫策の前にいた陸遜は、太史慈に気付いて後ろに下がって言った。

「急ぎですか。どうぞ、お先に」

 太史慈が「すまん」と言って進み出る。

「伯符さま。例の、顧氏の役職がかぶっていたという件ですが、伯符さまからも今日中に、直接一言入れてほしいとのことです!」

 孫策は眉を寄せる。

「あ?あのすっげぇ揉めてたヤツか?その件は公瑾が行ってカタが付いたんじゃなかったのか」

「その後でまた蒸し返しがあったとか何とか…」

 太史慈の言葉に、孫策は腕を組む。

「公瑾め。俺を出すってことは、このままゴリ押しする気だな…。まぁいい、分かった!公瑾に会ったら、了解だって言っといてくれ」

 太史慈は「はっ!」と返事をして去っていった。

「悪ぃな、伯言」

「いいえ。それで、干ばつ地の推奨産業について準備ができましたので、許可を…」

 陸遜がそこまで言ったところで、文官が足早に近付いてきた。

「伯符さま!県令どのがお見えになりました!お通ししてよろしいですか?」

「あ〜。そういえば今日約束してたんだっけ…」

 孫策が舌打ちする。

「どちらにお通ししましょうか?」

 文官の質問に陸遜が答えた。

「ああ、向かいの客室が空いてますよ」

「それは気付きませんでした!分かりました!ではそちらに!」

 文官が去っていった。

 孫策が何か言うより早く、陸遜は言った。

「どうぞ、行ってください。僕は急ぎではありませんから」

 故意…ではないと思うが。孫策は陸遜の顔を見たが、表情だけは穏やかなそこからは、腹の内まで読み取れない。まぁいい、と孫策は思った。

「じゃ、行ってくる。どうせ挨拶だけだからすぐ帰ってもらって…」

 立ち上がろうとした孫策のところへやってきたのは呂蒙だった。

「伯符さま!県令どのが来られたそうですね!俺、県令どのと話がしたかったんですよ!確認したいことがあるんです!同席していいですか?」

 孫策は答えた。

「ああ。いいぜ」

 呂蒙はほっとした表情になった。

「ありがとうございます!実はしばらく連絡つかなくって困ってたんですよ。聞きたいことが山のようにありまして…」

 

 広間を出ていった孫策と呂蒙に対し、ちょうど入れ替わるようにやってきたのは書簡の束を持った だった。

「やぁ。

 陸遜が に気付いて声をかける。 も会釈を返す。

「こんにちは、伯言さま。伯符さまはいらっしゃいますか」

「来客中ですよ。そんなに長くはかからないと思いますが」

 陸遜はそう言いながら から書簡の束を受け取り、項目ごとに並べ替える。

「伯符さまにご用事ですか?伝言などあれば僕が伝えておきますよ」

  は首を横に振った。

「いえ。私も用件は聞いていませんので…」

 「また後で寄ることにしますね」と言う の表情は明るい。陸遜は には分からないくらいに、わずかに肩をすくめた。

  は宮廷に回す書簡を集めると広間を出ていった。しばらくしてから、話し込む呂蒙を置いて孫策が戻ってきた。

 陸遜が言った。

が来てましたよ」

「あ、そうか…」

 またすれ違ったか、と孫策は内心で舌打ちする。まぁどちらにしても客室はもうだめだ。日の暮れるほうが早いだろう。

「…で、推奨産業の話だったな。確か前に養桑って言ってたよな」

 孫策は椅子に座り直し、中断されていた話を戻した。

「それで進めてくれ。ただ、この件は、起案が伯言、再鑑が公瑾、決済が俺だろ。上へ行くほど分かんねぇヤツになるんだよな。この流れ何とかしねぇと」

 そうしながら孫策は、話の妨げにならない程度に意識を に飛ばす。

 客室が使えねぇなら仕方ねぇ。でも、どっかその辺で、人気のないところくらいあるだろ。宮廷との連結近くの臨時執務室とか、ちょっと離れてるけど西の出入り口付近とか。

 孫策は話しながら のことを考える。

 そういう場所だと、あんまり多くは望めねぇよな。でも後ろから、こうきゅっと抱きしめるだけでもいいよな。んで耳の辺りをなぁ、ちゅっ、と。

 全然予想してねぇとき、 、一瞬びっくりして「驚かさないでくださいっ!」って抗議すんのがまたそそるん…。

 孫策がそう思ったところで、文官が広間に飛び込んできた。

「伯符さま!取引先から使者が来ています!糧秣の配送が遅れたのに、代金を通常通り請求するとは何事かと!やむを得ず臨時執務室にお通ししました!」

 続いて女官が広間に駆け込んできた。

「すみません!どなたか!『軍の俸禄のことで納得がいかない、上の者を出せ!』と西の出入り口に何人も詰めかけて暴れています!」

 またよりによって。

 孫策は勢いよく立ち上がった。

「分かった!任せろ!」

 横で聞いていた陸遜が言った。

「僕も出ますよ。どちらに行きましょうか」

 孫策は眉を上げた。陸遜の腹の内はやはり読めないが、仕事をしてくれるのは非常にありがたい。

「助かる!じゃ、糧秣のほう頼む!」

 

 孫策が西の出入り口付近へ向かうと、すでに複数人での取っ組み合いが始まっていた。相手をしているのは甘寧だった。甘寧の後ろから殴りかかろうとしていた男を孫策はさらに後ろから回し蹴りを食らわせ、その勢いで半回転してついでにもう一人倒す。がっぷり組み合っている甘寧と男の側まで来ると、孫策は二人の襟首を同時につかみ、ねじるようにしてわずかに上へ持ち上げた。

「げっ!」

 甘寧が孫策の姿に驚いて声をあげる。

「な、何だ、てめぇは!」

 孫策は両方を交互に見ながら言った。

「先に手ぇ出したのはどっちだぁ!」

 甘寧は身動きせずにごくりと唾を飲み込んで言った。

「…俺です」

「そうか」

 孫策はそれを聞くと、甘寧の襟首をつかんでいた手をぱっと離し、拳をつくって男に向き直った。

「てめぇ、興覇をふっかけんじゃねぇ!」

 ばきぃっと音がして、男が殴り倒された。

「何しやがる!」

「うるせぇ!」

 別の男がつかみかかってきたのを、孫策は見逃さなかった。男の拳を軽く後ろに下がってかわし、右足で男の足の甲を思い切り踏みつける。

「ぎゃっ!」

 男が悲鳴をあげる。孫策は足を離さず男のみぞおちに肘鉄を叩き込み、男が思わず前屈みになったところで肘を回転させ、裏拳で鼻にさらに一撃を与える。

 男が倒れた。別の男がその様子を見て言った。

「ち、ちくしょう!何てところなんだ!こ、こんな軍、辞めてやってもいいんだぞ!」

「なんだとぉ?」

 孫策は男をにらむ。孫策は大股で男に歩み寄ると衣服の顎の下のあたりをつかみ、自分の顔のほうに引き寄せた。

「てめぇ、布告ちゃんと読んだのか!『強制ではない』って初めから書いてあるだろうがぁっ!」

 孫策は声を張り上げた。

「誰か!離軍届け持ってこいっ!」

 

 後の処理を甘寧に任せた孫策は、広間へ戻るために足を速めた。途中、臨時執務室前に通りかかると陸遜の声が聞こえてきた。

「手続きを取らなかったのはそちら様でしょう。こちらとしましては、再三にわたってご案内を差し上げているんですよ…おかしい?おかしいとおっしゃるのはどの部分でしょうか」

 その間にも孫策の姿を認めた文官が、書簡を持ってわらわらと寄ってきた。

 一時は行列になった決済待ち文官をようやくさばいた孫策は、広間の手前で太史慈に行き会った。

 太史慈は感心したように言った。

「ああ、伯符さま、もう戻ってこられたんですね!馬で行かれたんですか、早かったですね!」

「へ?馬?何のことだ?」

 孫策は、太史慈の言葉の意味が分からず聞き返した。太史慈は言った。

「行って帰ってこられたんじゃないんですか?公瑾さまの伝言の…」

 太史慈がそこまで言ったところで、孫策は「ああっ!」と叫んだ。

「やべぇ!そうだった!行ってくる!」

 

 孫策が庁舎へ戻ってきたのは、とっくに日が暮れ、月も高くなってからのことだった。

「くそったれ!思ったより時間がかかっちまった。あの年寄り、同じことを何回も言わせやがって」

「伯符!すまなかったな!」

 灯りのついた広間で、周瑜が孫策を出迎えた。孫策はやれやれというように右腕を肩からぐるぐる回した。

「あのじいさん、人の言うこと全然聞かねぇよな!ああ、でも多分これ以上はグダグダ言うことねぇと思うぞ」

 孫策はそう言ってから広間を見渡す。広間はもちろん、庁舎全体にも人の気配は少ない。

「他のヤツらは帰ったか…。まだ出先のヤツっているか?」

 孫策が尋ねる。周瑜が答える。

「まだ確認していない。実は私も先ほど戻ってきたところなんだ」

 孫策は意外そうに眉を上げた。

「…遅かったんだな。何かあったのか」

「ああ、ちょっとな。数人の男が『中央庁舎で若い男に無理やり軍を追い出された』とか何とかで…」

 孫策は考えるように一瞬視線を彷徨わせ、それから頭をかいた。

「…それ、俺だよ。あいつら、その足で分所行ったのか…悪かったな」

 周瑜は「なんだ、君だったのか」とわずかに微笑みながら言った。

「大したことはない。善処しておいた。お互い様だ」

 孫策は笑って、両腕を上げて伸びをする。

「今日はここまでにしとくか…。何かあっという間の一日だったな…」

 周瑜が頷く。そのまま自分の机に向かって歩き出したのを見て、孫策は声をかける。

「あれ公瑾、お前、帰らねぇの?」

 周瑜は机上のいくつかの書簡をまとめながら言った。

「机の上を片付けてから行く。それに今日は見回りの当番なのだ。君は先に帰れ」

 孫策は「そっか」と言いながら腕を下ろし、扉に向かってくるりと踵を返した。

「じゃ、あと頼むな!お疲れ!」

 孫策は歩いて机を離れ、足早に扉をくぐり、廊下へ出たときには駆け足になっていた。

 頭の中からはすでに仕事のことは追い出され、 のことで一杯になっている。

 背中を指でなぞる?

 後ろから抱きしめる?

 耳に口付ける?

 孫策はスピードを落とさずに角を曲がりながら自分の上着の襟の辺りに手をかけた。

 そんなまどろっこしいこと、やってられっか!

 

!遅くなって悪ぃ!待っただろ!」

 孫策は の房の扉を勢いよく開けると同時に大声で言った。

「いいえ、お疲れ様で…って、なんでもう上半身裸なんですかっ!」

 ちょうど腰掛けから立ち上がろうとしていた が、孫策の姿を見て声をあげた。

 孫策はそれには返事をせずにずかずかと進み、 との距離を一気に詰めると、 の着物の合わせ目を両手でつかみ、力任せに左右に引っ張った。 は首から胸にかけて、ひんやりした夜の空気が直接触れるのを感じた。

  は息を飲む。

「…は、伯符さ…!?」

  の声が、口付けで封じられる。間を置かずに、 のあらわになった胸のふくらみを、孫策の右の手のひらが捕らえた。先端を人差し指と中指で挟むようにしながら、円を描くようにして揉みしだく。いつもより早く、そして荒く。

 戸惑いを隠せずに、思わず孫策の体から離れようとする を、孫策はより強い力で引き寄せた。

「…だめだ。逃げるな」

 孫策は の腰を抱く左腕に力を込め、離れることを許さない。それでいて の首の付け根辺りに噛み付くような口付けを続けながら、その合間に孫策は言った。

「お前が…欲しいんだよ。今すぐ」

 孫策の息遣いはすでに熱を帯びている。

 孫策は を寝台に押し倒すと、 の着物の裾をまくって太ももに手のひらを滑らせた。そして太ももから、内側の部分へ行こうとしたとき。

「お休みのところ申し訳ありません!」

 突然、廊下のほうから声がかかった。

「伯符さまはいらっしゃいますか!」

 孫策の動きが、ぴたりと止まる。唇が「マジかよ」という形に動くのを、 は見た。

「どうした!」

 首を廊下の方向に向けながら、孫策は返事をする。伝令が声を張り上げる。

「改築中の東棟が足場から崩壊したとの知らせがありました!」

「なんだと!怪我人はいるのか!」

 孫策は表情を改める。

「建物内に人がいたかどうかはまだ分かりません!ですが付近にいた何人かが下敷きになりました!救出にあたっておられた幼平さまも、さらに崩れた梁で負傷されたとのこと!」

 孫策は言った。

「分かった!すぐ行く!」

「はっ!」

 靴音を立てて伝令が去っていく。知らせを聞いた者が次々と起き出したのか、あちこちから人のざわめく気配がしてくる。

 孫策は体を起こした。そのままその辺にあった上着をつかむと、着る代わりに裸の肩にひっかける。

 そして に、というより自分に言い聞かせるように叫んだ。

「おあずけだぁっ!」

 

「伯符さま!こちらです!」

 孫策を呼ぶ声がした。孫策が目をやると、灯りで照らし出された現場が見て取れた。すでに救出作業が始まっている。

「おぅ!」

 孫策は返事をする。

  には先に寝るよう言ってきた。夜も更けてきている。その上、いつ戻れるかは分からない。起きて待っていろとはいえない。

 …まぁ、誰が悪いってわけじゃねぇからな。

 孫策は、文句を言う気はない。

 それより今は目の前のことを片付けるのが先だ。

 気持ちを切り替えると、孫策は走り出した。

 

 


 

クレーム対応をする孫策たちを書きたかっただけ…。

 

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