朝に思う
ああ、もう朝なんだ…。 は仰向けになった状態から、逆さまに窓を見て思った。 身体を起こそうとしたところで、腹部の鈍痛には顔をしかめた。腕でかばうようにしながら、ゆっくりと上半身を持ち上げる。 隣を見ると、その原因である人…孫策が、両手足を広げて横になっていた。 まだ眠っているらしく、胸の辺りが規則正しく上下している。の視界に飛び込んできた首筋から肩にかけての逞しい線が、否が応でも男性を意識させる。そして例によって何も身に付けてないくせに、掛け物も被っていない。 は「目の毒だわ」とつぶやいて、足のほうに追いやられてくしゃくしゃになった掛け物を孫策の頭から被せてやった。
「一人寝は寂しいだろうから、添い寝しにきてやったぜ」 そう言って孫策がの房を訪ねてきたのは、昨日の晩のことだった。 「別に寂しくはありませんけど」 は孫策を招き入れながら言った。には宮廷に私房が与えられている。そしてその私房に孫策がやってくるのは珍しくない。 「ちょうどお茶を飲もうと思っていたところです。伯符さまもいかがですか」 「そうだな。もらおっか」 孫策には手近な腰掛けに落ち着いてもらってから、は小卓のほうへと戻った。先ほど挽いたばかりの茶葉にお湯を注ぎ、庶民風に柑子の皮を浮かべる。茶を嗜む人からは「どぶ水」と評される飲み方であるが、孫策との共通した嗜好の一つだ。 孫策は、茶を冷ましながら言った。 「…ふぅん、そうか。じゃ、お前のためじゃなくて、俺のためにしてくれよ」 「何の話ですか」 「さっきの話の続きだよ」 「終わってなかったんですか」 「お前は上と下、どっちがいい?」 「普通は横にするものです」 「それじゃつまんねぇよ…」 孫策の言いたいことを要約するとこうなる。 『俺はやりたい。お前はどうだ?』 普段、単刀直入をよしとする孫策だが、ときどきこういう物言いをすることもは最近知った。こういう件に関して、どちらかと言えば露骨な言い方を好まないを思いやってのことだということも。孫策なりに遠回しな表現であり、高圧的な口調が単なる照れ隠しなのも、顔を見れば一目瞭然だ。 孫策はすでに空けた湯飲みを置いて、のほうを面白そうに眺めている。こちらの反応を見ながらやり取りを楽しんでいる様子に、は苦笑しながら言った。 「『一碗喉吻を潤い、二碗孤悶を破る』と言います。茶は、一杯目は喉を潤してくれ、二杯目は寂しさを和らげてくれますよ。それで十分ではありませんか」 その詩は孫策も知っている。周瑜が「重厚にして奔放、なんと美しい表現なのかと感動した」とか言って、一時期、耳にタコができるまで聞かされた。茶を詠んだ有名な詩文の一節だ。 「二杯目をお持ちしますよ」 はそう言って、立ち上がって孫策の隣から彼の湯飲みを取ろうとした。の指が湯飲みに届く前に、孫策はその腕を捕らえて引き寄せた。 は孫策の膝に、横座りするような格好になる。 孫策はの身体を支えるように彼女の腰に手を回した。そうしながらもう片方の手を、そのままでは横顔を向けることになるの頬に添えて自分のほうを向かせた。 「俺は、お前のほうがいいな」 真っ直ぐに見つめられてそんなことを言われては、は返す言葉に困る。 孫策の軽く握った拳の第二関節のあたりが、の頬に触れて撫でるように上下する。 腰に一巻きされた腕はじりじりと締まり、わき腹を探るように動く指は今にもの胸のふくらみに届きそうだ。 孫策はの耳元に唇を寄せた。顔は笑っている。 唇が耳に触れるか触れないかの微妙な位置で、普段よりも低い声を作って孫策は言った。 「なぁ、。『五碗肌骨清く、六碗仙霊に通ず』…だろ?」 「なっ、何言ってるんですかっ!」 茶の奥深さを称えるはずの詩文から思わず結びつけてしまったあられもない想像に、は背中から熱くなるのを感じた。 咄嗟に耳の辺りを手で隠すようにしながら顔を孫策とは反対方向に向ける。 それが合図になった。 孫策は、の耳を覆っている手の、手首の辺りに口付けた。手のひらと腕をつなぐちょうど骨ばったところを何度も含むようにした後、その腕を取って裏側の柔らかな部分にゆっくりと舌を這わせる。 「は、伯符さま…」 は動けずに、戸惑ったように声を出すのが精一杯。 「いい子にしてろって…」 孫策はそう言って顔を上げて、の唇に口付けた。唇を甘く噛み、時折吸いながらも徐々に首を傾けて角度をつけ、深いところまで舌を差し入れる。 孫策の愛撫と口付けを受けていると、は頭の芯から痺れるような眩暈がしてくる。かろうじて残る意識で判断できるのは、こうなると身を任せるしかないということのみ。
そしてそのまま寝台になだれ込まれて今に至る…。
それにしても、とは思う。 翌朝、身体が、どことは言いたくないが痛むのは何とかならないだろうか。 もうちょっと手加減してくれてもいいのに。 いつの間にか掛け物から腕と顔を出していた孫策を見ながらは思った。 思わず愚痴めいたことをつぶやいた一方で、には分かっている。手加減してこれなのだ。 それに、原因は自分にもあることを、は知っている。 孫策とは何度か肌を重ねたが、未だに慣れない。慣れることができない。 向かい合ったときの高揚感と、どうしようもない緊張は、初めてのときと変わらない。それが多分、身体を固くさせるのだ。 孫策にもそれは分かっている。だから、訊いてくれるのだ。言葉と、態度で。「お前はどうだ?」と。 はざっと上着を羽織ると、手櫛で髪を整えた。そうして寝台の孫策の顔の辺りを覗き込むようにして身を屈める。の髪が孫策の顔にぱらりとかかった。鼻にも触れたのか、孫策は大きなくしゃみをした。 それで目を覚ました孫策はに気付くと、邪気のない顔で笑った。 「よぅ。早いな」 「…お陰さまで」 「マジ?」 「そんなわけないでしょう。睡眠不足ですが、朝だから起きただけです」 なんだよそれ、とぼやきながら孫策は身体を起こした。 「お前、クソ真面目なところあるからな。あんまり無理すんなよ」 自分のことを棚に上げた台詞である。が、それは本心であることも、は知っている。 そしてその気持ちはとても心地よい。 俺も起きるか、と言いながら孫策は伸びをする。
一日が、始まる。 孫策で終わった昨日。 孫策で始まる今日。 それは素敵以外、なにものでもない。
参考 『中国茶・五感の世界 その歴史と文化』 孔令敬 日本放送出版協会 途中の詩と訳も、上記の本から引用しました。なお、この詩は本当は唐代のものです(汗)。
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